ねぎおSTOPWAR

ミュンヘンのねぎおSTOPWARのレビュー・感想・評価

ミュンヘン(2005年製作の映画)
3.9
スピルバーグ監督はユダヤを主題に据えた映画だと、思い入れが強く出過ぎてしまうと言われています。同時にこの作品では立ち位置が必ずしもイスラエル側にないので、ユダヤ人からも批判を浴びたそうですね。

実際にあったテロと、その復讐の顛末を描いた長編です。


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以降はネタバレしていますので未見の方はご遠慮ください。





そもそもの事件、つまりミュンヘンオリンピックは6歳の頃の話。さすがに覚えてないなあ。モントリオールはよく覚えているんですが。

ある種平凡な市民だった主人公の変貌はこの映画の醍醐味。ちょっとデフォルメし過ぎなくらい、後半の青白い顔は迫力と説得力に溢れていましたね。
そしていつしかモサド(イスラエルの諜報機関)ともすれ違う。
まだちょっと反芻しないといけないかもしれないけれど、後半のあの爆弾製造担当が死に至る過程と主人公とのカットバックは何か意図していましたよね。
そのシーンの直前に彼は正論を言ってチームを抜けると言い、主人公はわかったとオランダへ殺戮に向かう・・。
繰り返し交互に編集されているのは、
《チームを抜け、製造していた爆弾の解体にいそしむ・・あげく仕掛けられた爆弾で(あるいは自分のミス?)》
《「自分は狙われているんじゃないか?」の疑念から部屋中解体して、あげくクローゼットに休息の場を求める》
解体するという行動は同じでも心理と状況はまるで逆というまあテンプレな設定です、はい。



そしてオランダの傭兵姉さん殺したあと、唐突に調理のシーンをUPで捉えた映像が繰り返されます。玉ねぎやらをトントントントン!サクサクサクサク!ザッザッザッザッザ!
・・んっ?ここであれっ?て思いますよね。何回かあった調理&食卓シーンも「ただ」あったわけじゃないぞ、これ!って。メンバーが集まったところに食事があっただけじゃない。思えばパパのところでもいきなり調理の手伝い。食卓もあった。ラストはエフライム(ジェフリー・ラッシュ)と食事招待→お断り。
食卓とは、死と隣り合わせの未来に向かう彼らにとって、唯一心を通わせ合う場。食材の禁忌はあれど<おいしい>って国境を超える。特に主人公にとっては、殺人を繰り返し心が壊れるのをギリギリ日常に引き戻す行為。殺し合いという非日常に対しての日常。
しかし映像で観た食卓がユダヤの伝統であれば、以前観たイラクの食卓ととても似ています。あんなに嫌がるアラブの食卓の風習とは、「誰にも足りなかったなんて言わさない。腹いっぱい食べさせる大皿料理」似てますよね。


さて、さっき書いた爆弾担当の駅ホームの正論セリフって重要なわけですが、こうでした。

「俺たちはユダヤ人だ、敵と同じ悪は働かない」
主人公「もうその節度は通じない」
「じゃあ俺たちに節度はあったのか?憎しみの数千年は節度など消し去る。でも高潔であらねば。それがユダヤ人の素晴らしさだ。・・そう教えられてきた。でも今の俺は見失ってしまった。信じてきた全てを・・俺の魂を」

これはある種イスラエルの右派には受け入れられない主張ですわ。これでスピルバーグは批判されたんですね。
この建国がどんな意味を持ち、どれだけ重要かはともかく、いずれにしろイスラエルは人々が生活していた場所を、「ここに自分たちの国を作る」と言って「勝手に」奪ったわけですよね。彼らはそれを「努力」という。

さらに劇中(アテネでだったかな?)でパレスチナ民(アリ?)に向かい主人公は「おまえらなんであんな痩せた大地の場所に戻りたいんだ?」ととんでもない発言!それにパレスチナ民はそこが故郷なんだ。とシンプルに返す。では主人公にとって大切な故郷、それは漠然とした国ではなく、妻でしかない。いわば心の中にしかない。つまりはここで主人公はユダヤの代表でもなんでもない。ずれているんですよね。政府とずれているんです、最初から。
だーからナチスにしろアメリカもロシアもムッソリーニも政府というものが大っ嫌いなパパはそれを見抜いてルール違反をした主人公を「おまえは家族を守ろうとしたんだ」とむしろ同調するようなことを言う。「お前は家族じゃないが気に入っている」と。

その心の内を覗き込むと共感するんですけどね。

落ち着いて考えてみると、スピルバーグは事実をベースにした映画で164分もの間何を見せたのか・・・。
『どんな理屈をこねようが、復讐は復讐しか生まず、一向に心の平安は訪れない』
でしたね。