✔️【奇想天外映画祭】🔸『ワイルド・ボーイ』(3.1)🔸『デコーダー』(3.3) 【IFF~アトリエ105】🔸①『慰霊碑』(3.7)🔸②『身体サンプル』(3.8)🔸③『間奏』(3.4)🔸『私が浴するオアシス』④(3.6)🔸⑤『フィルムの破断』(3.0) 【IFF~アナログフィルム】🔸⑥『ぬけがら』(3.3)🔸⑦『ホログラフィックウィル』(3.7)🔸⑧『NYCRGB』(4.0)🔸⑨『緊張のアンサンブルの見える部分と見えない部分』(4.3)🔸⑩『霧の通り道#15』(4.4)🔸⑪『荒廃の国』(3.4)🔸⑫『島は見えないとおもう』(3.5)🔸⑬『SET』(3.2)🔸⑭『暗きジャングルのために』(3.1) 【IFF~コンペB】🔸⑮『クィーンのかぎ針編み』(3.3)🔸⑯『ずっと前、そう遠くないところ』(3.1)🔸⑰『蒸発書簡』(3.3)🔸⑱『みじめな奇蹟』(3.3)▶️▶️
恒例のK'sシネマの「奇想~」も、元々玉石混淆にしても、ショボくはなってきてるのだろう。エース格の『ワイルド~』からして、ペキンパー時代、70年代の燃えカスのような映画だ。ぷんぷんニューメキシコ地方色と何故かクールな主人公ナレーション、陽光や大地の荒涼と雄大、ローやワイドめの腰の座った構図、スロー引き伸ばしや3段寄りらもある緊張と爆裂の凄さ。そしてフリーク的人間ら(怪物的ボスや、舌切られ噛みつき野獣的主人公少年、以上に女装の母役キャラダイン)。町の要職の者らを押さえ、自在に過大暴力強盗に勤しむ、怪物的ボス。子分が間違えて盗んだ子どもの舌を切り、獣的に育て、強盗はやめ盗品の捌きに入る。が子分が人も食い殺す少年も使って強盗止めず、その奇怪さから組織の怪物反社会性に立ち上がる市民ら。皆死ぬが、残った少年は、全てを理解の医師に舌を与えられ、社会復帰してく。ユニーク、辺境と壮大、魅力的に見えるが、内からくる充実はそう感じられない。
それなら、レイト上映でウトウトしてて半分位しか納めてないが、こちらを。作りもこなれた『ワイルド~』に比べ、ぎこちない『デコーダー』の方が遥かに刺激的。こっちは近未来の、監視・マス操作・性と暴動独走の、怪作だが、素人手つきなれど、(複数)色彩照明に染まったカットたち、切返しサイズやサイズ変えや多種組合わせ・角度変の固いモンタージュ、未来オフィス的構図と移動、様々モニター内映像や商売女への飾り窓の組立、個人的性癖浸りと規律固めるサービス業企業内、録音テープ音楽操作力と暴動の現実か報道か、ら面白い。
市井や世界不穏世情監視システムの中の老若コンビ、休みもしない前者は飾り窓の女にもいつしか接近、性的に変態的恋人持ち、遊び威勢誇示もする後者は、整然規制規律のハンバーガーチェーン店から音楽操作し、手に負えぬ巨大な暴動までも引き起こし、老側も巻込まれて射殺へ。が私はセオリー沿い映画の方が好きなので、無茶な異サイズ等は染み入るを拒む感じは拭えない。
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ノー審査上映からコンペの要素を入れてきたIFFも、初期の勢いからウォーホル大量紹介までは勢いや熱があり、近年は純粋な実験映画から、商業映画の規格外れの者のウェイトを増やしてきてプログラム数を保ってきた感がある。それでも目玉はあり、今回は、A・ラローズ特集か。が、そういうのに限り仕事と、バッティング。(後、今世紀になって観てなかったP・オニールの回顧上映もあるが、こっちも観たいが都合がつかない。)
代わりにこの作家の以前観て、感銘を受けたのが他プログラムにあるのへ、改めて(⑩)。以前は35ミリではなかったか、警戒解いてタップリ浸ったせいか、周りもレベルが高いせいか(限りなく細かな多重露光、角ばらぬフィルム特有のボケめエッジ、反転ネガや色の抜き方、のフィルム特質活かしプログラム)、より圧巻だった。『幸福』よりも『草の上の昼食』よりも、その自然の息吹き・たゆたいは数段美しい。子供たちや人々とも時にすれ違いながら、紅葉の黄金色が舞い流れる並木道を主観で歩きながら、一色にたっぷりの沼に届くまでの主観移動は、黄や赤の葉々の点々や重なりを、撮し取り区域を微妙に限って、微細無限の多重撮影をしてくので、動きの時間差行き来や淡さ儚さ舞い踊りで3Dを上回る幽玄立体包み、人や枝葉の千切られて引き伸ばされてく、溶かされてく感が、この世のものとは思えない、この美に匹敵する映画は唯一『アマルコルド』くらいか。バウエルではなく、ロトゥンノなのだ。
これを固定カット群、都市の古風ビルらや小塔らでやってるのが⑧、日あたる壁面は固有の色彩が占めるが、陰の部分は当然動き、しかもその時々でのホワイトバランスを取らずに壁の色を同じに調整した分、影は太陽光の3原色寄り(赤黄青白)の何れかの色を示し、ズレたり違う長さで出てる、長時間スパンの限定多重撮影。建物のエッジがきつくなく、空の雲も淡く色違い多重風。
このプログラムのキュレーターのも数本入ってるが、モノクロ、ネガ反転、そしてやはり多重撮影を代表して使ってるフィルム特性偏重映画ら。フィルムのエッジの柔らかさも活かされてる。中では実験映画王道みたいな、自然の森と空だかのモノめも、ブラウンかグリーンも底流にあり、移動と細かく移ろいの多重撮影、そこへフィルム素材自体のゴミや傷も不規則に加わってくる⑨が圧倒的で、モノクロで、都市と建築物、朧な山と空、の似てるか存在してるか確定しずらい、デリケートな初終重ね焼き並べ連ね⑪⑫も味があった。⑭バックも動的だが、円形が手前に大きく迫ってきて、中の抽象図形もうごめきを強めてくのは、平板。同じ意味で他作家(⑤と同じ)⑬の、他所から持ってきたランダムだが鮮やかな自然や構築物の半静物、時にスッと動く鳥や獣の、モンタージュメイン作も当たり前レベル。やはり、⑥モノクロで上半身を髪と共に大きく揺らす中年多重撮影の流れ、若い人とも時に変えたり、フレームから出ていかんとするような動きへの放射感へ、⑦岩肌から結晶面へ細かく多重撮影の変移移行の肌触り、細かな丸い小カメラで部屋の様々な場をバラけさせ、また綜合も感じさせてく特殊万華鏡的動き、のカメラやポスプロ操作大の方がこの種のジャンルとして、あるべき感。
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同じキュレーターが現在から未来を担う、ビデオ製作の方の場を本国で提供してるのから持ってきたのも、フィルムの質感の重石を抜け出して、軽やか面白い。①浜辺の波や砂場や坂台場に、陽光やモノリス的人工的高い黒石柱らを自在に配置し、図や位置のダイナミズムや透明キレが楽しく弾むが、②の、より薄布越しや小画面入れや画面に書き入れ細工して、昆虫ら小生物生態から山岳スケール、抽象造形まで、自由に組合せ繋げる方が面白いし、見事だ。③モノクロフィルム素材で、浜辺漁の小舟の引き揚げの細部ロープを丹念正確を作業の人姿まで、度を過ぎる執着で描いたのも見応えあるし、④住居を特殊カメラかポストプロか、ユニークに動き歪め、枠取り分化したり組合せてく、現実を異次元に変える作は、寧ろ神経や観念による世界観変革のナレーションがやや作品を狭めてる気もする。⑤唯一35のフィルム作品もあったが、大劇場のアピール作らしく、上映システム、緞帳効果、大スクリーンの小穴ら、揺らさず音を通す為を逆にそこから客席を写すと、らをスクリーンサイズも変えながら雄大にやってるのが、本来の歴史ある大劇場でやればもっと効果があったかと思うが。
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コンペの方も観たいのと仕事がバッティングし、空いてる時間に一晩組だけを観たが、時間予告に偽りがあり、押して他会場の予約作品を観れず、思い出したくもない気もするが、観た作は全作書き残す趣旨も守りたい。どれも標準は超えてるが、はみ出し感今一つ。⑮幼少からの韓国伝統の多色毛糸のかぎ針編みの集大成に二十代半ばの今、取り組んでく作は、アングルやサイズの自由多彩、受け継いだ祖母らや家族・自分の過去映像自在入り、内省的性格に合ったナレーションで囲んだ、豊かな映像作品だが、達成を越えた血筋や世界の呼び起こし、過去の自分との呼応が出てくる。⑯は、マルチ画面で、英語への翻訳、それをまた訳し戻し、の4単語画面が続く、キューブリックと戸田奈津子の関係性みたいな作で、ある種の厳粛なユーモアもか。⑰創作と世界観の行き詰まりを語りと問いかけで延々続くは、ハード面の視覚多彩可能性のウェイト大の日本作家と、日常と作家意欲に向き合う内省的台湾作家の交換日誌的作で、相互に補いあってもいて、手法や風景・時代が実に柔らかい触感と行き先広さを感じさせる、ザ・個人映画実験映画の趣。かつての同種、川中ー萩原版よりは何倍も優れてる。⑱書いた書面の字が浮き上がり踊り出す、やがてカラーや広い対象からも拾い出す、アニメーションは完成度も高く整い、力もあるが、ナレーションは妙に冷静さを失い、自己や世界に憤ってる。