近本光司

実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)の近本光司のレビュー・感想・評価

4.0
重信房子はあと二日で刑期を終えて出所する。獄中でこの映画の完成版を観る機会を与えられたのかどうかはよくわからない。しかし彼女が往年の同志である若松孝二による運動の「総括」をどう受け止めたのかが、わたしがエンドロールを眺めながらまず一番に気になったことだった。
 総括せよ。自己批判せよ。共産主義化せよ。革命戦士たれ。連合赤軍の活動家は同志たちに向かって、そのような言葉を何度も何度も浴びせかける。しかし誰ひとりとしてこれらの言葉が意味するものを理解していない。若松孝二がほとんど茶化すように繰り返し役者たちに言わせたとおり、ここではこうした空疎な概念だけが先鋭化し、やがて悲惨きわまりない暴力につながっていく。ここで問われるべきは、いったい内ゲバの犠牲者たちはなんのために死ななければならなかったのか、ということに限られる。死者のうちには直接の知り合いだった者たちも数多くいたことだろう。若松はこの映画をつうじて、非業な死を遂げた彼ら彼女らの喪に服す作業を行なっている。テロップで活動家たちの実名がその命日とともに次々に記される一連のシークエンスは、わたしは本当につらくてつらくて仕方がなかった。
 あさま山荘に立てこもる彼らの銃口が向けられる先は一向に映されない。そもそも敵はどこにいたのか。なにと闘っていたのか。なんのために生命を賭していたのか。またしても彼らの実存があまりにわたし(たち)のそれと遠くへだたっていると痛感するいっぽうで、あの概念の空転に異様なまでのリアリティが備わっていたことがただただおそろしかった。獄中で「総括」としての自死を選んだ森恒夫が書き残した言葉でさえも空虚に聞こえてならない。あれから半世紀、成田空港は国際便を飛ばしつづけ、返還された沖縄には広大な米軍基地が存在し、いまや極左でさえも安保を安易に否定する者はいない(ウクライナ侵攻でますます安保は強固なものとなった)。じゃあ、本当になんのために彼らは死ななければいけなかったのか。本当に。