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日本の夜と霧のTnTのレビュー・感想・評価

日本の夜と霧(1960年製作の映画)
4.3
 最近、大阪なおみ選手出演のCMで大阪選手の髪に「SILENCE IS VIOLENCE」と描かれているのを見た。今作品もまさにそうだった。「何も言わないことは黙認したも同然だ!」と「日本の夜と霧」の劇中言われるように、今作品はしゃべりの応酬だ。そしてそれは、語られなければならない安保闘争の話なのだ。

 結婚式の中で飛び交う安保闘争の激論。1960年公開というまさしく安保闘争真っ只中で公開された作品は、時代を新鮮に記憶し、またその熱気を後世に残した。結婚式の場で世代が言い争うというアンビバレンツな感覚と皮肉。そして実際に今作品封切り3週間後に大島監督が結婚するという、所謂プレ結婚式映画でもある(?)。

 長回し、カクカクと荒いパンニング、台詞を噛んでも進む物語。この荒さを乗り越え同時代に発表することを急いだのがわかりやすい作風が、大島渚の姿勢を伺わせる。映画は過去のことしか表現できないが、なるべく同時代性を保とうとしているふうに思う。また、現在形で起きたことを語る新鮮さはどの大島作品にも貫かれているような気がする。その時だからこそ撮れるものがあるのだ。

 回想。今作品の舞台はほぼ結婚式のみで成り立ち、回想でいくつかのシーンが描かれるシンプルなものだ。しかし、その回想との繋ぎは独特で、結婚式場が暗くなり数人の人物にスポットライトが当たると、そのまま回想のシーンがはじまっていくのだ。一種夢のような演出で、または演劇的で、面白い。低予算短期間でもこうした演出が光る。

 歌のあり方。大島作品の歌を歌う描写の違和感。彼らの歌は何か嫌悪感と孤立を際立たせたりと色々役割がある。今作品の「若者よ体を鍛えておけ〜」の歌の不気味さと、映画の劇伴と同時かつ別物として流れるミスマッチ感は明らかに浮いたものとして現れている。歌詞は共産主義的で、所謂結束することを強いるように思える。またラストの党首による演説の空虚さも共産主義への批判が大きくされている。大島は徹底的に個人主義的なので、こうした歌や結束の欺瞞を暴く赴きがある。今作品ではむしろ劇伴とマッチするのは闘争の激化する学生の個人個人の声だったりする。

 安保闘争の真っ只中で。恐らく当時ここまで安保を実直に暴き出したものはないだろう。つまり、安保闘争の中にも派閥や考え方があるわけで、それをはっきり見える形にした功績は大きいように思える。

 つまり、当時の若者もその闘争の果てに何があるか不安であったはずだからだ。ころころと革命運動の方針を変えていく党、過激化する運動、先の見えない不安、知識なしに青春の怒りをぶつける者、闘争の果てに絶望を見る者、無気力になり諦める者、自己保身に安保を利用する者、世代間による闘争の考え方のギャップ、それら複雑性(だが決して難解なわけではない)。つまり彼らそれぞれの人生そのものとの絡み合いが描かれる。当時これを観て、「ああ、やはり俺と同じで不安に思うヤツがいたのか」と思う若者も多かったに違いない(現代から見ても共感できるところもあった)。むしろ、半ば論理を捨てて暴走する革命運動のある党の動きを批判している。その暴走は、党内結束の方へと力が注がれ、闘争の本質からはずれていく。そして実際安保闘争は70年代に入ると派閥どうしでの抗争が激化し、結果的に”敗北”の道をたどる。そうした先見性さえをも持ち得たのが今作品なのだろう。

 「和解せず」との類似。先日見たストローブ=ユイレ監督作品「和解せず」は第二次世界大戦後のドイツでの様々な和解を巡る問題の映画だった。「和解せず」は世代同士、友人同士の戦争による許し合えない問題が続くという話だ。それはいわば「日本の〜」の劇中の激論の中における「和解せず」な状態と非常に似ている。死んだ友人を巡る問題、それを忘れようとする加害側とそれを許さぬ残された同士たち。この忘却については「和解せず」のレビューで書いた通りだ。今作品も許されない問題が浮かび上がる(すべてを人間が覚えられないという限界という問題があるのも否めないが)。
 
 生々しい生のあり方。生きる、それはつまり社会の中であるはずだ。強く生きる彼らが政治的に見えるのは至極当然な結果であっただろう。また、大島渚作品がその政治性と性、犯罪などのある種のタブーをどれも等しく取り上げていたのは、その生の原動力の賛辞に他ならない。また、あらゆる生きることを縛る体制的なこと全てに懐疑的であったのだ。現代のあらゆることの中(社会から芸術に至るまで)での政治性の欠落はつまり、生にある種の欠落を生んでいる。社会を語ったり考えたりせず、一体如何に社会の中で生きていけるというのか。当時の問題以上に現在の問題も浮かび上がる。

 最近こうした政治闘争の敗北によるシラケ世代として北野武の作品はまさにそうなんじゃないかと思ったところがある。特に武映画の黙することが多くを語る表現と大島作品の話しまくり打ち明ける表現の対比は、そうした世代間ギャップを考えると合点がいく(どちらが適切な表現かは問題ではなく、どちらも良いと思う)。
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