シゲーニョ

スーパーバッド 童貞ウォーズのシゲーニョのレビュー・感想・評価

4.3
本作「スーパーバッド 童貞ウォーズ(07年)」は、全米で国内興収200億円の大ヒットながら、日本では「ノースター、有名俳優のいないコメディー映画はウケない」という通説が業界内にまことしやかにあるため、劇場未公開でビデオスルー。

自分は本作のプロデューサー、ジャド・アパトーが初メガホンをとった「40歳の童貞男(05年)」を観て、「40代にもかかわらず、ピュアで未熟な中年オヤジが、挫折を繰り返しながらついに“成功”して本当の大人になっていく物語」に大感動!!(当時、自分がアラフォーだったことも大きな原因だったと思う…)

それ故、ジャド・アパトーの新作に期待が高まり、「童貞」というタイトルが重なっていることも併せて(笑)、本作をレンタルすることになるのだが…。

初鑑賞当時も今も感じることだが、もしも仮に自分に10代の娘がいたとしたら、絶対に「スーパーバッド 童貞ウォーズ」を観ることは許さないだろう(笑)。

原題「SUPERBAD」は、ジェームス・ブラウンの歌にもあるように「スゲえワルで超イケてる奴」という意味の70年代ソウル用語だが、そのタイトルから想像出来ない、全く逆の世界が描かれる、ヘナチョコ映画。

本作の主人公はその言葉から世界で一番遠い存在、チビ&デブのセス(ジョナ・ヒル)と、痩せモヤシで気が弱いエヴァン(マイケル・セラ)の童貞高校生二人組だ。

高校卒業まであと2週間と迫ったある夜、二人は童貞とオサラバすべく冒険に旅立つ。

求めるお宝は「お酒」。アメリカでは21歳以上の身分証明証が無ければ酒が買えない!もちろん自動販売機も無い!
今晩、女の子たちがやっているパーティーに酒を持っていけばヒーローになれる!もしかしたらエッチだってできる(かも)!!

かくして「童貞くん、はじめてのおつかい」てな感じで、唯一の友だちといえるユダヤ人のクセメン、フォーゲル(クリストファー・ミンツ=プラッセ)のニセIDを使っての買い物ウォーズが始まるワケだが、ボンクラの思惑通りにスムーズに進むことなど絶対にあり得ず、その様相は「一晩の地獄巡り」と化していく…。

まぁ、本作を一言で申せば、イケてない高校生が童貞を捨てるために頑張るだけのハナシだ。

セスのアタマの中味は、“大学に進学する前に童貞を捨ててセックスの達人にならなければ!”というエロい焦燥感みたいなヤツがグルグル回っているだけだし、エヴァンはエヴァンで、今一番の夢は、“ボ○キしている自分を見て喜ぶ女の子がいる世界に住みたい”。


そして、邦題のサブタイトルに偽りなく、童貞&下ネタ・ワード連発のオンパレード。

「Fxxk」「Suck」「Dick」「Shit」は当たり前、「Get Fxxked Up(ぶっ飛ぼうぜ!)」なんてフレーズが頻繁に出てくる。
「Faggot(=ゲイの攻撃的な呼び方)」とか、特に「The Camel Toe」なんて全く聞き慣れない言葉だが、直訳すればラクダのつま先、ただしスラングではマ○スジの意味!!(字幕では「食い込み線」と微妙な感じで訳しております…笑)

もちろん、開巻早々から下品だ。
セスとエヴァンが、電話で「今度登録するなら、どのエロサイトがいいか?」という、朝っぱらから童貞臭いワイ談で物語がスタート。

「来年、どのアダルトサイトに登録するか、決めたぞ!」というセスの台詞。
サイト名は「The Vag-Tasic Voyage(女体探究の旅)」。
これはSF映画不朽の名作「Fantastic Voyage(ミクロの決死圏/66年)に引っかけた超くだらない下ネタ。

その後の切り返しもまたくだらない。
エヴァンが「下品で素人クサいサイトは嫌だなぁ…。お金払うんだったら、いいクオリティーで、編集とか音楽も大事だ」と答えると、セスは「お前!たかがエロ動画に芸術性を求めるんじゃない!!」とツッコミを入れる(笑)。

こんなどうしようもなく、くだらない会話をセスはエヴァンを車で迎えにいく直前まで電話越しで話しているのだが、それがまるで1分1秒でも早く会うのが待ちきれない、恋人のように見えてしまう。

バックに流れるのが、いかにもセックス・マシーン風味な歌詞で、ファンキーなサウンドのバーケイズの曲「Too Hot to Stop(76年)」

「お前は感情で動いている/お前はどうやって動いていいのかわかってるだろう/俺はお前の愛を手に入れに迎えに来たのさ/俺の熱いヤリたい気持ちは止まらないぜ」

こうやって書くと本作を「お下劣なエロ・コメディ」と思われるかもしれないが、下ネタのほとんどは会話の中だけ。

ラウラ・アントネッリやエドウィジュ・フェネシュが出演した70年代のイタリア産「童貞喪失モノ」のような、女性のオ○パイやオ○リの直接描写があるわけではない(エロサイトの画像とポルノ雑誌の表紙ぐらいだ…)。
しかし、あるシーンだけ、ローティーンぐらいの女の子が一緒に観ていたら、その目を塞ぎたくなるような場面がある。

それが、セスの“ナニの絵”を描くことが趣味だったという、不幸な過去を晒す回想シーン。

子供の頃、たまたま“オトナの剥けたイチ○ツ”を見たセスは、それに取り憑かれてしまい、しばらくの間、ペンを持つとあのカタチを描かないと気が済まなくなってしまう(=セス曰く、発育期の子供の内、8%に見られる症状らしい)。

授業中、数学の教科書なら棒グラフの上、歴史なら偉人のイラストの股間にチ○ポを落書き。
また、ノートいっぱいに描かれた落書きは、カウボーイ風・スーパーマン風・エイリアン風・タイタニック風と、そそり立つナニの絵一つ一つに、毎回、微妙なアレンジがされている。

そして小学4年の頃、エヴァンの憧れの女子ベッカにその絵を見られて以来、みんなから“Puxxy(オカマ野郎)”と呼ばれ、セラピーに強制的に連れていかれれば、ホットドッグやアイスキャンディーといった、チ○コ型の食べ物禁止の診断を下されることになる…(笑)。
(ちなみに、小学生のベッカがナニの絵を見るシーン。その撮影時、カメラの後ろでは「子供に性的な言動をさせてはいけない」という理由で、弁護士とマネージャーなど4、5人のスタッフがアツ〜い議論を交わしていたそうで、結局、ナニの絵を持つ手元が映るシーンだけ、手の小さい成人女性が代役を務めたとのこと…)

このように本作「スーパーバッド 童貞ウォーズ」は、エグめの下ネタ、そしてストーリーが進むにつれ、酒&ドラッグ、バイオレンスもプラスされ、本来なら「青少年にやらせちゃ問題だろう!」と思えるほどの、次から次へと不適切・不謹慎な描写のつるべ打ちとなる。

しかし、そこに痛み&切なさが徐々に加わってきて、それまでの仕様もないギャグからは想像できない、深い感動が用意されているのだ。

本作は、誰にでも訪れる、子供が思春期から青年期、つまり「大人への階段を上る時の不安&期待」を、巧妙に描いていると思う。

セスは今(=思春期)、楽しいと感じることがそのまま続けばと願っている反面、今抱えている劣等感が大人になることで霧散霧消して欲しいという、二律背反するような願望を抱いている。

冒頭、エヴァンの母親に「二人ともすんごく仲がイイのに、大学が別々になって寂しくない?」と問われると、「毎晩、泣くと思う…でもうれし泣きだけどね」と強がりを言う。

しかし色々あって、お酒がゲット出来ず、エヴァンに「お前なんかと友達でいたから、10年間も彼女が出来なかったんだ!」とブチ切られた時、返す刀で、「お前だって一緒に同じ大学行くって約束したのに、頭がイイからって違う大学に進学するじゃないか!ガキの頃からの約束はどうした? この嘘つき!」とやり返す。

また、文句をつけてきたジョックス(演じるのはジェームズ・フランコの実弟デイブ)に向かって、「お前は8年前にお漏らししたクズだ!一生言い続けてやる!」と啖呵を切るクセして、10年以上も昔のことなのに、ナニの絵をベッカに見られたことで、自分は今でも嫌われているとずっと思い込んでいる。

さらにお酒をくすねに行った矢先のコカイン・パーティーで、(たぶん)昔からいじめられっ子のイイ年こいたオッサンが、「お前なんかが来るな!」と叩き出されるのを見てしまい、“マッチョ天下の国”アメリカでは、「ルーザー(負け犬)」は、いくつになってもみんなの前で恥をかかされることを痛いほど知ることになる。

だから、虚勢を張って、時にはウソをついてでも自分を強くカッコよく見せつけたいという、「強迫観念」に駆られてしまうのだ。

本作は“童貞男子モノ”なので、女の子の前では無理してもイキがる、体を張ってでもイキがる文化というか、「男らしさのアピール」ってやつを前面に押し出して描いている。

「酒を持ってパーティーに行けば女の子にチヤホヤされて、エッチまで出来るかも…」という勝手に膨らませた妄想のおかげで、「まかせなって!オレたちが酒を持ってくるから!」と、つい出来ない約束をしてしまうし、課金のエロサイトの料金を、親を騙して払ってもらっているクセに、好きな女の子から高級そうな酒(キラキラ金箔入りのウオッカ)をおねだりされれば、「オレのおごりだ!」とついつい見栄を張る。

そして、見落としがちなのが、主人公たちが着ているTシャツ。

セスのTシャツには、黒人コメディアン俳優リチャード・プライヤーの顔がプリントされている。

リチャード・プライヤーは「Mother Fxxker!」を連発する過激なジョークで有名だが、そのユーモアの原点を彼自身、「奴隷時代からの黒人民話で語られてきた“苦痛”からの解放」と答えている。
プライヤーは、それまでのテレビや映画で描かれてきた黒人の口承伝統的なイメージ(召使、ピンプ、ドラッグの売人、アタマのネジは緩いのに運動神経はバツグン…etc)を逆手にとり、皮肉めいた笑いに変え、黒人自らが望む役をハリウッドで掴んだ、エディ・マーフィーの大先輩にあたるレジェンド・スター。

また、フォーゲルのTシャツにプリントされているのが、メタリカの4枚目のアルバム「メタル・ジャスティス(88年)」のジャケット。

当時流行っていたヘビメタバンドの歌詞(ドラッグや酒、車やバイク、性的な内容)と比べ、政治腐敗や核廃絶など社会性に富んだメッセージを含む楽曲が多く、「エスプリの効いた知的なアルバム」と多くのメディアから高評価を得た名盤で、フォーゲルはセス同様に、「固定観念で判断するな!中身のオレはお前らよりイケてるんだぞ!」という、ある種、心の叫びみたいなものをアピールしているわけだ。

ただし、これまでに蓄積された他者から見た己のイメージは、Tシャツ1枚ぐらいで簡単に覆せるわけがない。

劇中では描かれていないが、このボンクラ三人組は、思い出したくない程の醜態を過去にもいっぱい晒してきたはずだ…。

そんな一面を窺えるのが、フォーゲルの偽装ID登場シーン。

IDの中央上に大きく「HAWAII」と記されている。たぶん、ハワイの土産物屋かなんかで作って貰ったヤツだろう。
しかも名前は「McLOVIN」だけ。直訳すれば「マクドナルド大好き!」っていう名前だ。

当然、セスとエヴァンにツッコまれる。
「マクラヴィン?? アイリッシュ? R&Bの歌手?? なんで普通の名前にしねえんだ! それになんだ、この顔写真は!将来は性犯罪者確実って顔だし…。え?苗字だけ?? お前アーティストかよ(怒)!」

まぁ、顔は生まれつきなんで仕方無いと思うが、演じるクリストファー・ミンツ=プラッセは確かに「ちびまる子」に出てくる、見栄っ張りの丸尾くんをかなり貧相にした感じの容貌に見える…。

余談ながら、最初の店で酒をゲット出来ず、打ち拉がれた三人組がバスに乗っているシーン。
バスの後部席からドリーバックしながら、カメラは最後、フォーゲルの姿を映すのだが、なんと鼻クソを穿っている(!!)。ハリウッド産のエンタメ映画で鼻くそ穿るところなんて初めて観た。しかも、指についた鼻クソを、じっと見るのだ(笑)

閑話休題…

ツッコミ部分を自分なりに解説すると、「Mc(=マック)」はゲール語で「○○の息子」という意味で、アイリッシュによくある名前。R&B歌手というのはマリアン・ラブとかダーレン・ラブといった、70年代に人気だった黒人歌手のファミリーネームに「LOVE」が多かったからというボケ。苗字だけっていうのは、シャキーラとかシール、プリンス、マドンナ、今だったらリアーナとかを指しているのだろう…。

こういった彼らの思春期ならではの呪縛、その描写が「ポーキーズ(81年)」や「アメリカン・パイ(99年)」といった過去のハリウッド産童貞喪失映画より、一歩も二歩も抜きん出ているように思えるのは、下ネタ、不謹慎な笑いに満たされていると同時に、親友同士のオトコの子が大人になっていくプロセスで、違う道を歩んでいくことになる、その最後のひと時、少年時代の終わりの瞬間を捉えた点にあるからだろう。

少年期の喪失。

そう、本作は卒業や女子との交際をきっかけに、男子が男子だけの世界から旅立っていくことの挽歌なのである。

本作「スーパーバッド 童貞ウォーズ」は、
高校卒業間近の主人公達が「酒を買う」というイニシエーションを通して、大人になっていく話だ。

学校では人気がなくて、もちろん童貞。だから気になる女の子と付き合いたい!エッチがしたい!
この時、彼らは女の子を、ある種、神格化した存在として考えていたのだと思う。
しかし実際に本当にエッチが出来る!彼氏になれる!その一歩手前で彼らは気付く。

今まで憧れに憧れてきた女の子達も、彼らが望んだような理想の存在ではなく、自分達と同じように欠点や悩みを抱えた一人の「人間」であることだ。

セスとエヴァンたちが酒を手に入れるために悪戦苦闘している間、二人の到着を待っていたジュールズ(エマ・ストーン)とベッカ(マーサ・マックアイサック)も心臓バクバクで不安と緊張と闘っていたのだ。

そして今までクダらない時間だと思ってきた、モテない男同士の冴えない日々が、実はかけがえのない日々であったこと、それを知った上でなお、お互いの道を歩む、大人になるためにお互いに別々の道を歩むことになる…。

つまり「友」とは付き合った時間の長さではなく、一緒に大人になる儀式(イニシエーション)を潜り抜けたかにあるのだと、本作は語っているのだ。

一晩の冒険、地獄巡りを終えてセスとエヴァンは二人っきりになる。

「もう会えないかもしれない…」

寝袋に包まりながら、エヴァンはセスに「愛しているよ」と呟く。
酔っ払っているから口走ったのかもしれないが、セスは真剣に答えてしまう。
「俺もお前を愛している。そういうのは恥ずかしくない。屋上で叫べるぜ、オレの親友を愛しているって!」

ただし、アルフォンソ・キュアロンの「天国の口、終りの楽園。(01年)」のような締めくくりにはならない。
「ボーイズ・ドント・クライ(99年)」みたいに「君を想えば生きていける。永遠の愛を込めて」なんていう、別れ際の言葉などない。

ラストシーン。
エスカレーターの影に消えていくエヴァンの姿、それを複雑な表情で眺めるセス。

「好きな女の子とエッチ」なんかよりも、「マブダチとダベる日々」の方が楽しかったんだと気づき、それでも「一人前の男」になるため、楽しかった過去に別れを告げて、流れに身を任せるがまま、「大人」になることを決めた顔つきだ。

そういう切なさ、子供時代からの卒業という寂寥感がじんわりと伝わってくる美しい幕引き、名シーンだと思う。

エンドクレジットと共に聴こえてくるのが、カーティス・メイフィールドの「P.S I Love You(76年)」

「多分、僕たち、同じ風に感じているよね/愛って変だよね/追伸 愛してるよベイビー/毎日毎日、君とやったバカ騒ぎ以外、他の生き方は僕には無かった/(中略)僕にとっては、長い長い冬だったけどね/長年の友人であったベイビー/もう一度愛しあえてよかったよ」


最後に…

本作は脚本を担当したセス・ローゲンとエヴァン・ゴールドバーグの少年時代を参考にして作られた「実話ネタ」で、主人公二人の名前もまさにセスとエヴァン。

またセス・ローゲン本人が「大人になった今でも、馬鹿騒ぎやっている警官マイケルズ」を楽しそうに演じている点がポイントだ。(マイケルズの相棒スレイターを演じでいるのは、サタデー・ナイト・ライブ出身のビル・ヘイダー)

未成年飲酒を目論む主人公たちの前に立ちふさがる警察官コンビなのだが、実は信号無視・飲酒運転・コカイン・ひき逃げと、立場を利用して好き放題に生きる究極のボンクラで、「こち亀」の両さんみたいなキャラ。

そんな彼らがギークなフォーゲルと意気投合し、次々と“大人の体験”を味わせていく様は、不謹慎ながらも笑ってしまう。しかし、二人が未成年と知りながらもフォーゲルを連れ回したのは、「大人になっても、男同士で楽しくやれるもんだよ、大人になるのも悪くないぜ」と伝えたかったからに他ならない。

終盤、色々あって、
マイケルズ&スレイターの警官コンビとフォーゲルの三人がしんみりと語り合う場面が訪れる。

スレイターが「オレたちも昔、警官を嫌っていた。酒を買うお前を見て、自分の昔を思い出した。警官の職業も楽しめることをお前に見せたかったんだ。」と言うと、マイケルズもボツリ「ホントのオレたちを見せたんだ…」

ベッドの上でハグし合うオトコ三人…。

本作のラストは「愛し合っている親友同士が、大人になるために仕方なく別れる」というビターエンドを連想させるが、そんな切なさを与える一方、セス・ローゲンがもう一つのメッセージを送っているように感じてしまう。

少年を卒業した瞬間のセスと、大人になった後のセス。
そんな二人を、ひとつの物語の中で同時に描くことで、「思春期の切なさは一種の通過儀礼で、将来的にはハッピーエンドになる」という含みを持たせていると思えてしまったのだ。

あ〜やっぱり、本作はもしも、10代の娘がいたら観せたくない映画だな…。
いや、年齢問わず、女性にはあんまり観て欲しくない映画なのかもしれない…(笑)