カラン

蛇の卵のカランのレビュー・感想・評価

蛇の卵(1977年製作の映画)
5.0


「ベルイマン映画の中に迷い込んだ気分だったね。初日に撮影したのは冒頭の宿屋のシーン。奥で結婚祝いのパーティーをやっている一団がいる。彼らは一日中リハーサルをしていたよ。でも、実際に彼らが映るのはせいぜい数秒間だ。僕が廊下を通り過ぎる時にチラリと見えるだけだ。楽しげな雰囲気を出すためだけなんだ。僕は食事のトレーを持って階段を上がっていき、後ろ向きにドアを開けるんだけど、室内に向き直ると、兄が壁にもたれて死んでるんだよ。銃で頭を撃って自殺したんだ。しばらく兄を見つめてからトレーを下におく。その間も階下の宴会の騒ぎが聞こえてくる。いかにもベルイマンの世界だと思ったよ。」


このように主演のデイビッド・キャラダインは『蛇の卵』の撮影を振り返っている。DVDの特典映像のインタビューの中でである。このキャラダインの直前はリブ・ウルマンのコメントである。アメリカ資本を得たベルイマンは、大がかりなセットや美術といったような、外面的なものに固執してしまい、人間の内面性を深くえぐるという本来の持ち味をなくしてしまった。それをベルイマン本人も自覚しており、楽しいはずの撮影に苦しみを覚えていた、という趣旨のことをリブは述べていた。キャラダインは「いかにもベルイマンの映画だ」と言っており、リブは「ベルイマンらしくない」と考えている。さて、どうしたものか。

キャラダインを除くと、フィルマークスも他のサイトも、どうもこの映画はベルイマンらしくないということで意見が一致しているようだ。猫も杓子も、とはこのことである。①ベルイマンらしくない映画であるし、②発表時のアメリカでの評価はイマイチなので、だから③この作品はご自分にとってもイマイチである、らしい。なんという三段論法なんだ!ベルイマンをちゃんと観る人には馬鹿馬鹿しい理屈であるが、多分この風評はDVDについているマルク・シェルべという評論家のコメンタリーの受け売りなんじゃないかと思う。



それで、この映画のいったいどこがベルイマンらしくないというのか? 撮影はスヴェン・ニクヴィストで、『ペルソナ』や『狼の時刻』、そして『叫びとささやき』でも徹底されていた、根源的な存在の喪失を喚起させる、顔面を半分切り取って影にしてしまう不吉なクローズアップショットのかっこよさも健在である。

40を前にしたリブ・ウルマンは『恥』の時のように官能的な肢体であるが『恥』と同様に疲労困憊になっており、夕方まで病院でこき使われ、夜はキャバレーの踊り子として狂ったようなグリーンのメイクを顔に塗りつけて、しゃがれ声で英語を話す姿は、『叫びとささやき』のハリエット・アンデルセンと同じだけ病んでいる。

好奇心をかきたてる物がたくさん溢れた部屋で、誰かの眼差しと物音に怯えるデイビッド・キャラダインは、『ファニーとアレクサンドル』のアレクサンドルことイングマールである。

デイビッド・キャラダインが、取調室から逃走を企てるが、悪夢のように、逃げたぶんだけ追い込まれていく警察署の造型は、『魔術師』のクライマックスでマックス・フォン・シドーが悪魔的に戯れる迷宮のように入り組んだ建築を想起させる。

あるいは、ヴィスコンティやフェリーニもびっくりするレベルの、小人も登場するキャバレーでの奇怪なショーは、ベルイマンとしては新しい取り組みなのかもしれない。蛇の卵として悪の揺籃期にあるヒトラーの民族浄化の炎が酒場を燃やすシーンから、リブの部屋でタバコをくゆらすキャラダインの煙に繋げるのは、しびれる編集である。

劇伴なしで、時計の音がやけに耳についてキャラダインの神経を逆なでし、リブを疲弊させるが、これは『野いちご』に始まり、『冬の光』、あるいは、『叫びとささやき』で洗練されたベルイマン特有のモチーフだろう。しかし、この時計の音は、実はアウシュヴィッツで悪逆非道の限りを尽くしたヨーゼフ・メンゲレ的な蛇の卵たちによる実験の一部に使われている妙なモーターの音なのであり、自分たちは実験台であり、監視されていたのだと幻想の舞台裏を明かすのは、ベルイマンらしくないのだろうか?

確かにそうかもしれない。しかしこの音は、メンゲレの卵たちに監視された部屋に引っ越す前から聞こえていなかったか? この男は下水の汲み取りの音に目を覚まし怯えている男であり、兄嫁の金を盗んではそれを大家に目撃されており、警察では自分が「ユダヤだから」だと打ち震えて何かされる前から逃げ出す男である。ユダヤに対するドイツの民族主義が悪なのか?それとも、キャラダイン扮するこのアル中寸前のろくでなしが抱えこんだ無意識的な罪悪感が問題なのか?無意識は関係ないとは言わせない。自分と同じ姓の仕立て屋のショーウィンドウを割って、亭主を殴り、女主人にキスを無理やりするのがアクティングアウトでなくてなんなのか。

このように、理性的分析をはぐらかし、正体不明の靄をかけて、究極のところは何なのかをつかませない、鑑賞者に解を与えない、劇中の不安を終わらせずにむしろ持続させるというストーリーテリングは、『恥』を経て、『ファニーとアレクサンドル』のラストで、5時間以上かけて自分と妹と父をめぐる悪意と不安と憎悪と罪悪感をファミリーロマンスとして再構成した後になって、またもや不安を煽る形象を再登場させるのと同じベルイマン作品なのであり、見るたびに新たなる感嘆と崇敬の念を覚える次第である。

オープニングでいきなりピアノの鍵盤に指を広げて手を落としたような不協和音がなり、無音になると暗い画面に無数の亡霊のような人々の群れがゆっくりと行進する様を捉えたミディアムショットが映り、今度はディキシーランドジャズとかの古風で無駄に明るい管楽器の音に乗ってクレジットが流れ、唐突に音が止んで無音のまま陰鬱な人々のミディアムショットが映るのが繰り返される冒頭は、高揚感を高める『ペルソナ』以来のベルイマン映画の始まりを告げており、何度見ても恐ろしく、かつ、胸が高鳴る。ベルイマンの映画は終わるが、終わらない。映画史にその名を残す巨匠の一人とされるゆえんだろう。

最後に木原武一の訳した『ベルイマン自伝』からこの映画に対する本人のコメントを引いておく。本人もまた本作に否定的なコメントを残しているわけだが、ロラン・バルトや蓮實重彦が言うように、作家本人の自作への理解が最重要というわけではないのだから、上に述べきたことを撤回する必要はなかろう。独創的という言葉を当てないとすれば、使い所をなくすことになってしまうほどに、自由で才気溢れる作品制作をして、20世紀美術を創始した当人であるマルセル・デュシャンは、芸術家は媒介する存在に過ぎず、作品の内部の秘密を探り当て、外部世界と関連付け、創造の円環を完結させるのは、作家ではなく、観客なのだ、と考えていたことを言い添えておくとしよう。タルコフスキーは間違いなく偉大で、ブニュエルもフェリーニも同様である。しかし映画の夢という不可能に『蛇の卵』は少なくとも『ストーカー』と同程度には近づいている。



P83

「映画がドキュメントではないとしたら、それは夢である。そういう意味でもっとも偉大なのはタルコフスキーである。彼は夢遊病者のような確かさで夢の世界を動きまわり、けっして説明することがない。いったい何を説明したらいいのだろうか。彼は自分のビジョンをもっとも難しいがもっとも柔軟なメディアによって表現することのできた、幻を見る人間なのである。私は、彼がいとも自然に動きまわっている部屋の扉を一生涯、叩き続けているようなものだ。ときにはその中にしのび込むこともできはしたが、『蛇の卵』・・・など、意識してそれを試みた作品はみじめな失敗に終わっている。・・・フェリーニや黒沢明、ブニュエルも、タルコフスキーと同じ世界の中にいる。」





付記

英語版のwikiには概要に次のように書いてある。

The Serpent’s Egg is considered one of Bergman’s weaker efforts.


何をもってしてこんな言い方ができるんだろう? かわいそうに、作品の真価に触れられなかたった評者なのだろう。しかし、だからといって、こんな言い分が許されてはならない。
カラン

カラン