茶碗

ニースについての茶碗のレビュー・感想・評価

ニースについて(1930年製作の映画)
4.0
街で生まれる多様な営みが持つ多様な側面、またその営みを担う人間たちに宿る文化の芳醇さと肉体の活力とが、この作品の骨格となっている。この作品を見た者がひとまず受け取るのは、そうした無数の営みに支えられた街全体が纏っている、明るく軽妙な、活き活きとした雰囲気だろう。あるいはまた、例えば居眠りする人々を繰り返し映したシーンなどから滲み出てくる撮り手のユーモアも、そのような雰囲気の一部分を形作っているだろう。
しかしこの作品を見ていて一番印象に残ったのはむしろ、画面に時折割り込んでくる、崇高としか言いようのない鮮烈なカットたちだった。その迫力はたぶん、世界を純粋な「形」の集積として捉える撮り手の視線が生み出したものである。この作品は確かに、ニースという一つの人間社会を素材にしているが、その素材を捉える視線は、ニースを、人間が見るようには見ていないように思える。箒で芥を塵取りに集めてゆくという所作は、人間社会においてはもちろん空間の清潔さを保つという意味を持つし、踊り狂う人々の身体の一つ一つは、法・道徳・経済市場からはみ出してしまう余剰としての感情を発散させる場として人間社会の中に位置づいている。けれどもこの映画では、箒の動きは浜辺に打ち寄せる波の動きと同期し、縦に跳ねる身体は空に向かって直立する景物と重なり合う。そうした強引とも言える同期・重ね合わせが辛うじて成立しているのは、ヴィゴの視線が、人間社会の中に現れる多様な営みから、人々の間でだけ流通する意味を剥ぎ取って、それらの営みを純粋な「形」そのものに還元しているからなのだと思う。撮り手は頻繁に、遥か上空からニースの一区画を見下ろしたり、あるいは反対に、屹立する建造物を人間より低い視点から仰ぎ見たりする。そうした見方は、街を人間社会として捉える視線とは全く違っているはずである。街に現れる無数の営みは、人間同士の協同・連関を足場として生み出されるものである限り、基本的には人間同士の水平的な視線を基底とする。それは言い換えれば、街を形作る多様な営みは、水平的な視線以外の視線を意識していないということでもある。だからこそ、街で営まれる催しや群れる人々の動き方が俯瞰されたとき、そうした映像が妙にユーモラスに感じられるのだろう。私たちが普段人間社会の中で、人々の感情や動きから感じ取っているリアリティーは、あの上からの/下からの眺めの中では相対化されてしまって、何だか無意味なことに人間たちが一生懸命になっているように思えてくる。そしてその落差に、人間の営みを愉快に感じる心持ちが胚胎してくる…というのが、この映画からユーモアが感じ取られる理由であるように思われる。
ともかく、そのように人間的な意味を無化してしまう視線で世界を眺めるヴィゴにとって、ニースという街は、人間的な意味に満たされた社会的空間なのではなく、社会/自然、人間/物体といった区分を取り払われた、剥き出しの「形」そのものの集積である。この映画が単なる軽妙な記録映像ではなくて、緊張感を持った美しい作品たり得ているのは、本来目に見えないはずの「形」それ自体などというものが、確かにその純度を保ったまま私たちに衝突してくるように感じられてしまうというその迫力ゆえなのではないだろうか。