亘

突撃の亘のレビュー・感想・評価

突撃(1957年製作の映画)
3.9
【硬直した組織】
第1次世界大戦下。フランス軍のダックス大佐はドイツ軍陣地「アリ塚」陥落の指令を受ける。しかしドイツ軍抵抗にあえなく撤退。すると後日「敵前逃亡」の罪で部下が処罰されることとなる。ダックス大佐は軍法会議で上層部に立ち向かう。

キューブリック監督が巨大組織に挑む1人の兵士を描いた作品。設定だけでいえば戦争映画ではあるけれども、ほとんど戦闘シーンはなくて軍部の人々のやり取りがメインだし、上層部と現場が乖離している軍組織のおかしさを描いた組織論映画でもあると思う。

本作は以下の5つのパートに分かれているように感じた。
[プロローグ]
冒頭フランス軍本部でブルラール大将が部下のミロー准将にドイツ軍のアリ塚攻略を打診する。ミロー准将は攻略に反対するが抗えず指令を出すことになる。
この冒頭があることでミロー准将への見方が変わる。短いけど重要なシーンだと思う。

[戦地]
フランス軍とドイツ軍が拮抗している地域。ダックス大佐はミロー准将からアリ塚攻略の指令を受ける。しかしそれは困難を極めるもので試算しても死者の方が多い。戦術として誤っている。ダックス大佐はもちろん反対するが准将のごり押しで作戦実行。するとやはり無人地帯(ノーマンズランド)すらまともに進めない。そしてミロー准将は、引き返す味方兵への攻撃まで指示する。

[軍法会議]
ダックス大佐は、ブルラール大将に呼ばれミロー准将含めて3人で会談をする。そこで軍法会議で敵前逃亡を問うことと3人が見せしめとして処刑されることを告げられる。
そして軍法会議当日。上層部たちは処刑が”決定事項”として形ばかりの裁判をする。そこでは動機やプロセス、状況は無視して「撤退した」という事実だけが問われているのだ。それに対してダックス大佐は論理的に反論。その姿は、「半沢直樹」や「相棒」のように理不尽な大組織に立ち向かう社会派ドラマの主人公のようだった。しかし論理は通じず”大組織の論理”でねじ伏せられる。

[処刑]
処刑が決まり、選ばれた3人はその日を待つことになる。理不尽に死を決めつけられた3人は卑屈になったり神にすがったり反応は様々。特に若いアーノーが「神でさえ救ってくれない」と自暴自棄になってしまう。
そして処刑シーンは今作のハイライト。美しいシンメトリーの庭園で整然と並ぶ軍部の前で3人の処刑が行われるのだ。
やることは一瞬で終わる「死の見せ物」なのに美しく整然と格式張っている。キューブリックらしい美しい構図が、軍の奇妙さを際立たせているように感じた。

[エピローグ]
酒場で捕まったドイツ人女性が見せ物にされている。そしてフランス兵たちは彼女にヤジを飛ばしている。しかし女性が歌い始めると兵士たちは彼女の歌声に心を動かされ、泣く者もいれば合わせて歌う者もいる。
処刑から全く雰囲気の変わる終わり方だけど、ドイツ人女性の歌声は、まさに戦争の不条理とは正反対の純粋さの象徴なのだろう。彼女の歌声が不条理さですさんだ兵士の心をいやしたのだ。これは希望のあるラストシーンに思えた。

〇組織について
本作で描かれるフランス軍には組織として問題がある。敗戦国軍でこの問題を描いたらおそらく「敗戦の原因」となるところを戦勝国フランス軍で描いたことで、本作は”戦争自体”を悪者にしているように感じた。

・官僚主義
戦地でミロー准将の味方陣地攻撃に対して「将軍からの紙での命令が必要」というシーンがある。結果的にこれで味方兵の死者は減ったので良かったけど、現場で状況に応じて判断ができていない。
・現場を無視した戦略決定(精神論)
アリ塚攻略は成功すれば前進できるが、自軍の損失の大きい作戦。しかも援護を送るわけでもなく、ブルラール大将曰く「戦わぬものは死」という精神論に頼っているのだ。まさに上層部が本部で考え付いて熟慮されてない。このような現場を無視して精神論に頼った事例は、日本軍の敗戦を組織論から実証した『失敗の本質』でも触れられている。
・上層部の無責任(+トカゲのしっぽ切り)
一番の悪役はブルラール大将。にこやかで良い人そうに見せてアリ塚攻略を思いついた張本人。しかも軍法会議には欠席して、処刑には責任を持とうとしないし、それでいて処刑の直前には舞踏会を楽しむ。
処刑後にはミロー准将に左遷を告げてダックス大佐に昇進が打診。ミロー准将というトカゲのしっぽを切って事を済ましたのだ。軍法会議の幹部含めて無責任な上層部を象徴している人物だろう。

印象に残ったシーン:軍法会議でダックス大佐が反論するシーン、処刑される3人が話し合うシーン、処刑のシーン
亘