青山祐介

カフカの「城」の青山祐介のレビュー・感想・評価

カフカの「城」(1997年製作の映画)
3.8
カフカ、プルースト、ジョイス ―『われわれは彼らを、創始者よりはむしろ完結者として考え、彼らから何事かを学びとることはできず、むしろ、模倣できるだけである。そしてそのような模倣の代価は、彼らの仕事のたんなる繰り返しに終わることだと見なしている。』(スーザン・ソンタグ)

ミヒャエル・ハネケ「カフカの<城>(Das Schloß)」1997年 オーストリア/ドイツ

ハネケ「カフカの<城>」をルネ・ホッケに倣い「知的異-映画」と呼ぶことにする。
「知的異-小説」であるカフカの「迷宮的迷路行」の物語を、ハネケはどのような映画にするのか、そして模倣の代価をどのようにはらうのか、この映画を観る最大の興味である。カフカの<城>は未完の小説である。未完にならざるを得なかった物語といってもよい。そのためもあって、原作を読み終わったそのときに、何とも遣りきれない不安に襲われる。そのとき、むしろカフカからは引き離されて、私自身にもどり、自分の暗いおぼろげな無意識の底を覗きこむような、恐ろしい物語となる。たとえばザムザの変身が妄想なのではなく、まったく普通の現実であるという身体的恐怖と似たものである。その経験は人生の終末をむかえたときに生ずる不安に近いものかもしれない。カフカの不安とは「太古のもの、人間の記憶の及ばぬものに対する不安である、と同時に、そしてこれと同じ割合において、間近にあるもの、目前に差し迫っているものに対する不安(ベンヤミン)」である。
カフカの小説の描写は映画的であるといわれる。ハネケはカフカの世界と人物の動きを忠実に映像化(模倣)しようとするが、それが成功したのかどうか、難しいところである。カフカの映画化にはどうしても足りないものができてしまう。それが言葉である。母国語を使わなかったカフカの「カフカ語」と名付けたくなるような、語彙は少ないが言葉自体がある種の生き物に見えてしまう独特の言葉遣いである。「カフカ語」と「カフカ映像」の絡み合いによって物語は進行する。カフカ映像もまた一種の生き物である。Kのナレーション、ショットとショットをつなぐ闇がカフカ語を暗示する、それがハネケの苦肉の方法であったのであろう。「カフカ語」を使わぬかぎり映像化は不可能である。また「カフカ語」を「生き物」として認めないかぎり<城>の謎は解明されることはない。いや、<城>の謎は解明されることはない。この映画は<カフカの城>ではなく<ハネケの城>である。おそらく読者、あるいは観客の数だけ謎はのこるのであろう。
 カフカの三つの長編小説に登場し主人公を誘惑する女性たちを三人の映像作家がどのように描いたか、それを知ることがカフカに近づく一つの方法であることに、この映画を観て教えられた。ストロープ=ユイレの<アメリカ>で魔女のように高笑いするそこらあたりの女中、オーソン・ウェルズの<審判>で「人形のように丸い顔で、血の気のない頬だけでなく、顎もまん丸く、こめかみも、額も丸い」中指と薬指の間にヒレのあるレニ、そしてハネケの<城>、クラムの愛人で、ふしだらな「頬がこけ、さびしげな表情の、見栄えのしない、小柄な…(しかし)眼差しが並外れて優れたところのある」フリーダ。

『Kが城山の村のなかで生活するのと同じように、今日の人間も自己の身体のなかで生きている。この身体は彼から滑り落ち、彼に敵対している。人間がある朝目覚めると毒虫に変わっていた、ということが起こりうるのだ。異郷が、彼自身という異郷が彼の支配者になったのだ。』(ヴァルター・ベンヤミン)
青山祐介

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