ナガノヤスユ記

シュトロツェクの不思議な旅のナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

4.5
ヘルツォークの親は生粋の不定職者で、ヘルツォーク自身幼少期は居を転々とし、音楽や映画は勿論、水洗トイレさえ知らない極貧生活を味わっていたらしい。

少々鈍いが善良な小市民ブルーノをバラバラに引き裂いたのは、資本主義というあまりにも支配的なイデオロギーが与える共同幻想、その最も鋭利で辛辣な一面だったろう。今日よりも良い明日、ここではないどこか、自分たちはよりよい未来を作りだせるはずだという、全く自明ではない考え方に、彼も僕たちも爪の先までどっぷり浸かってしまっている。だからこそ銀行は成立するし、僕たちはローンを組む。陰謀だと叫んでも仕方ない。これは人類全員で乗りこんだ船であり、そこから降りることは殆ど死を意味する。
競売を取りしきる大佐と呼ばれる人のマシンガンの如き早口は、滑稽ではあるが、それ以上に残酷で、しかしあれこそが資本主義のスピードなのだ。人間一人の人生が猛スピードで市場を転がっていく。無論ブルーノがその速度についていけるわけがない。
箱の中の鶏はそして、自分の意思で踊っているのではない。誰かが押したスイッチと鳴り止むことのない音楽に踊らされている。それ以外の生き方を知らないのだ。
同じ場所をぐるぐると回り、上がり下がりを繰り返すだけのこのリフトからの降り方は、今日未だ発見されていない。
折しも昨日終わった総選挙で、市場の自由、規制緩和を一心不乱に標榜する連立与党を圧倒的多数で信任した日本国民も、当分はこの船に身を据えるつもりらしい。

また一方で、この映画そのもの、映画という存在自体が、近代以降の帝国主義と資本主義の断ちえない共謀関係の上に築かれた産物だという事実も、決して忘れてはいけない。

結局、撮る対象がなんであれ、ヘルツォークは人間という存在の相対化を試みている。確かにそれが、カメラという機械装置の最も原初かつ未到の使い方なのだという気はする。