レインウォッチャー

不思議惑星キン・ザ・ザのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

不思議惑星キン・ザ・ザ(1986年製作の映画)
3.5
噂やタイトルを裏切らない、ローファイ&キュートなへんてこSF映画。きっとウォッカを静脈点滴しながら作っている。

しかし輪をかけて不思議なのは、公開当時(1986年)のソ連で若者を中心に大ヒットしたという事実かもしれない。自らの原風景とは似ても似つかぬであろう果てしない砂漠の惑星に、彼らは何を見たのだろう。

惑星キン・ザ・ザは、テクノロジー面において地球より遥かに優っているようなのに、とぼけた面構えで服とか顔とかボロボロのおっさんたちがたくさん住んでいて、一度破綻した文明社会を思わせる。

一方、彼らの社会は厳格な身分制度と利益第一主義で成り立っており、その文化や習慣は異邦人である主人公たち(=わたしたち)から見て超滑稽で下らないものに映る。身分が高い人は黄色のステテコを履く特権があることで威張っているし、地球では何てことはない只のマッチが何よりも貴重な資源とされて皆が執着する、といった具合である。

そしてそのロジック、たとえば身分は何によって決まるのか…みたいなことは大抵説明がされない。「決まってるから従え」以上でも以下でもなく、ただ制度がそこにあって、放り込まれた主人公たちは途方に暮れることになる。

初めのうちは抵抗を見せる主人公たちも、徐々に「しゃーない」といった風に受け入れやがては順応していく姿がユーモラスかつシニカルだ。そこにはマイノリティのどうしようもなさだったり、側から見ればディストピアでも渦中の凡夫にとってはそのうち「常識」になってしまうという人の卑しく悲しい性なんかを見るようでもある。

この物語を経て、主人公たちもキン・ザ・ザの人々も何ら境遇に変化はない。
たとえば大きく人生観が変わるとか、星に革命が起こるとかいったことは何もないのである。
当時のソ連は宇宙開発の先進国でもあったと思うけれど、同時に崩壊が忍び寄る手詰まりな閉塞感にも満ちていたはず。たとえ地球の外へ行こうとも、国の名前や切れ目がどう変わろうとも、人が繰り返すのは結局似たようなこと、という一種の諦観を、この国に生きる人々は知っていたからこそおおいに笑えたのかもしれない。

ではそれから30年以上の時が経ったいまどうなったかといえば…
『キン・ザ・ ザ』はリメイク(アニメ)され、ご存知の通りわたしたちは相も変わらずステテコとマッチを巡っていがみ合いばっかりしているのだ。

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全体を包み込むゆるい雰囲気や、次々登場するチープでスチームパンク風なアイテム類など好きな要素満載の世界ではありつつ、このノリ一発であればもうちょっと尺がコンパクトだとなお嬉しかったかな…とは思うところ。
おや、しばらく砂漠と脂まみれのおっさんしか見てないぞ、という事実に気づいたとき、少なからずわたしの意識は蜃気楼の向こうに溶けていったのであった。

ところで、もしも「砂の惑星」つながりでドゥニ・ヴィルヌーヴがDUNEではなくこっちをリメイクする世界線があったらどうなっただろう。「クー」するティモシー・シャラメ(鼻には鈴)が見られたのだろうか。なんだかそれはとても見てみたい気もするし、違って心底よかった気もする。