げんき

マルコヴィッチの穴のげんきのネタバレレビュー・内容・結末

マルコヴィッチの穴(1999年製作の映画)
2.9

このレビューはネタバレを含みます

人形劇によるオープニングアクト。男の苦悩を表現した人形劇、その動きは人間が本当に泣いているように繊細で、肩を震わせ頭を抱えている。かと思ったら体を捻り、飛び跳ね、壁をけって宙で回る大胆さもある。
クレイグは娯楽としてではなく一芸術としての人形師を目指している。そんな彼が道端で人形劇を披露する日々。路上では「エロイーザからアベラードへ」の恋愛劇を扱い、壁を挟んで快楽に浸る男女の人形を操る。彼は男女のかみ合わない恋愛を芸術として披露しているが、偶然見ていたのが幼い女の子だったのがまずかった。その父親に殴られる始末。思えば脚本家チャーリー・カウフマンは後の『エターナルサンシャイン』ではこのエロイーザとアベラードの物語を基に脚本している。

会社で社長の猥談に付き添われ、そのような話をするには相応しくない、と答えるクレイグ。道端で先の人形劇をやっていた本人にも言ってあげたいよ。スタイルが良く下着がうっすら透け、タイトフィットな服装のマキシン。絶世の美女というわけではないけど、その色気や強気で挑発的な振る舞いに言いえぬ魅力を感じる。彼女はマルコヴィッチの中に入った誰かしらしか愛せない。人の外見と中身が不一致の時にしか愛さない。一体彼女が愛しているのは誰で、何に惹かれてるの!?

人形劇―ジョン・マルコヴィッチに入る、これがクレイグにとっての現実からの逃避行で自慰的行為にもなっている。一方クレイグの妻ロッテ。俳優とは自身の中に別の役を入れ、その人になりきることで観客に別の世界を見せるもの。ロッテはそんな俳優の中に入ることで自分の真の姿・性を見出した。それまで動物の世話を丁寧に行っていたのに、マキシンと出会ってレズに目覚めてから、動物はそっちのけでズブズブとマキシンとの関係に没頭していく。

低い天井で生活していると、なぜか周りの家具が小さく見えるけど、実際は普段使用しているのと変わらない。空間が狭いだけで小人サイズのように錯覚してしまう。書類を整理するクレイグだけど、自分の気持ちは整理できないし、人間関係も整理できない。自慰的行為の人形劇で身につけた手先の器用さは、人間マルコヴィッチを操るのには有用だったけど、それもまた自慰的行為に過ぎず、現実の世界では無意味だった。

結局クレイグは、次の器であるマルコヴィッチとマキシンの間に生まれた子どもに吸われ、一生思い通りに動けないまま、子どもの目線で生きていくしかない。

みんな倒錯してる。
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