ヒロ

愛と殺意のヒロのレビュー・感想・評価

愛と殺意(1950年製作の映画)
3.4
愛と殺意は表裏一体、かの大江健三郎は“肉親に抱く感情は愛と殺意しかない”と初期の傑作「叫び声」で綴っているが全くもってその通りだと思う。自分のものにならないのならばいっそ殺して永遠に自分のものにしてしまいたい、こういう感情は誰もが抱いたことがあると思いたい、が大抵というかほぼほぼ思うだけであって決して実行に移すことはできないのが世の常、それを実行した少年の正義がフィルムに刻印されているのがエドワードヤンの『牯嶺街少年殺人事件』である、ヤンはそれを表現するのに4時間を要している。そんな愛に関する根本的なテーマを自他共に認める愛の伝道師アントニオーニが処女長編で描いているという時点でもう鳥肌モノだし愛の不毛三部作への導入としての立ち位置を期待していたのだが、正直肩透かしを食らった。何故なら“愛するが故の殺意”ではなく“愛を得る為の殺意”であり目的でなく手段であったからで、愛と殺意のベクトルが一致していない単純なありふれた古典サスペンスに成り下がってしまっていたから。それでも作中に出てくる複数の愛が決して交わらない点や、路地のシーンに漂う倦怠感、ラストシーンに込められた愛の不毛はコミュニケーションの不可能性を孕んだ後の作品に通ずるものを感じた。戦後の退廃的ネオリアリズモな雰囲気もあっただけに残念。タイトルだけで期待しすぎた。

《新文芸坐シネマテークvol.21 知られざるアントニオーニ》
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