きょんちゃみ

サルトルとボーヴォワール 哲学と愛のきょんちゃみのレビュー・感想・評価

3.0
ラッセル、カール・ヒルティ、福田恆存、小林秀雄。彼らはみな人間の幸福を考え、私に生活知を与えてくれたひとだ。生活知とは哲学のことであり、生活に密着し、生活を豊かにしないならばそんなものは哲学でもなんでもない。少しアランの『幸福論』という作品のことをここに書いてみようと思う。こんなもの自己満足なので、誰も読まないで構わない。アランことエミール=オーギュスト・シャルティエは1868年3月3日、フランスのノルマンディ地方、オルヌ県のモンターニュ=オー=ペルシュに生まれ、1951年6月2日にイヴリーヌ県のル・ヴェジネで死去し、ペール=ラシェーズ墓地に埋葬された。父親は獣医で、母親は商家の出身だった。敬虔かつ急進的な政治信条を持つ家庭で育ち、中等教育を受けていたころには信仰を失った。彼は生涯独身であった。アランは1905年から、ルーアンの新聞に毎週日曜日(後から毎日のペースになる)にプロポ(雑話)を連載していた。『幸福論』は書き下ろしではなくて便箋2枚程度の散文の寄せ集めである。『幸福論』は、全部で93プロポある。この本がフランスでは既に120版以上の重版を重ねている。アランが書いたプロポは生涯では5000通を超えている。(当時プロポという形式の哲学書は軽薄だと非難されていた。)アランの師匠はジュール・ラニョー(1851-1894)アランの弟子は、小説家のアンドレ・モーロワ(1885-1967)。教え子には、ジョルジュ・カンギレム(1904-1995)、レイモン・アロン(1905-1983)、ジュリアン・グラック(1910-2007)、シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)などがいる。ソルボンヌ大学の学生たちは、大学の授業が面白くないときには、高校にやってきてアランの授業に出ていたという。アランは高校教師の傍ら、市民大学や政治活動にも参加していた。アランはひたすら行動する思想家だった。彼は自らを徹底した経験主義者だと言っていた。のちの、サルトルの実存主義の社会運動にも影響を与えたと考える人もいる。アランが生きた当時のヨーロッパはイタリアのメッシーナ地震と津波(1908年、死者11万人)、タイタニック号沈没(1912)、バルカン戦争勃発(1912)、第一次世界大戦すなわちサラエボ事件の勃発(1914)、ロシア革命(1917)、第一次世界大戦終結(1918年、独仏の死者70万人)、世界恐慌(1929)、資本主義が揺らぎファシズムの台頭、失業者の増加、労働運動の激化、などが相次ぐ大混乱期だった。だから、この当時みんなが自分のことを不幸だと思っていた。アランは1914年、プロポを書き始めてから9年目、46歳のとき、仕事が教師だから兵役義務はなかったにも関わらず迷わず志願し前線に行った。彼は反戦主義者だったが、ファシストも嫌いだったのである。戦場でも人間とは何かについて考えたかったのだそうだ。1917年、アランは負傷兵となって戦地から戻り、戦場での思索(『裁かれた戦争』など)を発表した。『精神と情熱とに関する81章』は小林秀雄が訳している。
アランの『幸福論』は、散文詩集のようであり、実践的な教えに満ちている。幸福論の主張は明快である。それは以下のようなものだ。

【人は誰でも幸福になれるし、また幸福にならなければならない。しかし幸福になるのは簡単ではない。また、幸福が独りよがりにならないために、礼節が存在する。礼節は幸福の調整役であり、幸福が伝染するために存在している。真偽などかなぐり捨ててでも、幸福になろうと決意した者には月桂樹の冠を授けるべきだ。幸福は人間関係の中にしかなく、世界と社会に根をはることが幸福の秘訣である。】

例えば、山頂まで登山電車で来た人は、登山家と同じ太陽を見ることは決してできない。棚から牡丹餅的な幸福を、人間はいつも求めているようでいて、実は、求めていないのではないか。楽して得られる幸福は、努力して得られる幸福とは全く別物なのである。幸せになるためには、勇気と努力、そして決意が必要なのだ。幸福は決して他人から与えられることができない。他人からもらった幸福など存在しない。他人によって幸せにしてもらうことはできない。幸福は、山によじ登っていくその行為の中にしかない。自分の意志と努力によってしか自分の幸福は分からない。そして自分が幸福にならなければ誰も幸福にはできない。さらにいえば、幸福は自分が幸福になろうとするその行為の中以外に、どこにも存在しない。不幸な境遇に生まれたせいで、険しい道のりを、決意して意志的に進んでいく、その道程が既にして幸福なのだ。幸福の基準はどこにも存在しない。あるのは幸福であろうとする意志と活動と責務だけである。

人生とは、つまらない芝居あるいは、前衛演劇のようなものである。つまらない芝居は、ただ観ていると本当につまらないが、つまらない芝居を自分がいざ演じてみると楽しい場合がある。カルトムービーや前衛演劇は、やはりただ見るだけではつまらないのだが、演じている人たちは楽しそうなものが多い。そしてカルトムービーは、それを観ている人たちも、映像に合わせて演じてみたり踊ってみたりその世界を生きてみると、楽しいと分かるような映画であることが多い(『ロッキーホラーショー』など)。つまらない演劇も、その演劇に観客が取り込まれたり、参加してみたりすると途端に楽しくなってくる場合がある。ここから分かるのは、幸せになりたい人は、受動的な観客ではなく、舞台に上がってみて、つまらない芝居でも自分で演じてみるような役者にならなくてはいけないということだ。真の幸福は何かに打ち込むことによって自分で生み出すものであって、他人がどれほど自分の演じている芝居を『つまらないぞこの大根役者!』と罵倒してこようとも、精一杯演じた本人にとっての絶大な幸福感というのは何人たりとも侵しえないのだ。人生という舞台の主役になる、つまり能動的になることによって、様々な困難は幸福へと至るべき道程となる。人生を作り出し、自分を作り出そう。人生においては、それを演じられる役者は自分しかいないからだ。例えば、どんな職業もやらされているならばその職業は不愉快だが、自分がプロジェクトを導くならば愉快だ。職業それ自体というよりも、職業への臨み方がその職業の愉快さを決めている側面があるのではないだろうか。人生を能動的に生き直すならば人間は幸福感と共にに生きられるのではないだろうか。

幸福とはそれ自体で徳である。アランは幸福それ自体を徳とみなすという珍しい立場だ。幸福自宅が徳ということはつまり、幸福にならなければならないという立場だ。つまり、他人や世の中の不幸や悲しみに同情することが有徳なのではなく、あくまでも自分が幸福であることが徳なのである。つまり、自分が幸福になることが世の中に取っても良いことなのであるとする立場だ。逆に言えば、苦しみや不幸に安住するのをアランは戒める。情念(喜怒哀楽)は、なくてはならない大切なものだが、情念に溺れたり、情念のとりこになってはいけない。情念はその人の存在そのものなので、単に否定すべきようなものではない。自分の感情と上手く付き合わなくてはならない。情念の原因は私たちの自由になるものではない。例えば自然法則、社会の慣習、他人、死の恐怖が情念の原因である。原因が自由にならないものだから、情念は我々にとって必然的であるように思われる。情念はどんどん想像の中で膨らんだりもする。不安・恐怖、疑心暗鬼・妬みなどの情念の連鎖は最終的には戦争まで引き起こす。アランによれば、指導者たちの退屈も戦争の原因である。情念は私そのものであるから逃げることはできない。対抗するには意志の力が必要だ。情念という荒野を意志によって耕し、幸福の種を蒔け、農夫にように開墾せよ、というのがアランの考えである。悲観主義は感情により楽観主義は意志による。無理をしてでも楽観主義者にならなければならない。幸福は意志し、努力し、行動することによってやってくる。幸せは決して黙っていても歩いてこない。人間にとって、困難と努力と予測不可能性を伴った行動に没頭できるということが既にして幸福なのである。自分で自分を不幸だと思っている時には、しばしばそれを我々は世界と社会のせいにする。しかし、自分こそが自分の不幸の原因である側面にもどこかで気づいているのではないか。気分はというものは野放しにしておくとどんどん不幸のほうに吸い寄せられていく。不幸を嘆き悲しみ、他人や社会のせいにするのはかくも容易なことなのだ。しかし自己憐憫からは何も生まれない。

ではどうやったら幸福になれるというのか。自然にしていても幸福になれると思うのは間違いであって、幸福になろうと意欲せねばならない。自分の在り方を能動的に創造していかなければ幸福にはなれない。幸福になるための方法は、だから、休息と深呼吸と体操と微笑みと伸びとあくびである。心と身体のこわばりをほぐさねばならない。気分に対抗するのは運動である。猫背でいるよりも、胸を張れば遠くが見通せて、気分も前向きになることがある。意志して伸びをすることも、あくびをすることも効果的だ。不機嫌に対抗して、微笑んでみるのもいい。

例えば、雨が降ってきたとき、「また嫌な雨だ」と他人に話すよりも、「今日は雨か。いい雨だなぁ。」とつぶやいてみるべきだ。それによって心が少し暖かくなるはずだ。雨はどうせ、なにを言ってもどうすることもできないのだから、雨を楽しむ視点を持つ方がずっと良いし、簡単なことではないか。逆にそういう時、「自分は不運だ」と決めつけると、どんどんそういう風に沈んでいくのではないだろうか。

かつてアレキサンダー大王は暴れ馬ブケファルスを手懐けたそうだ。ブケファルスは暴れる自分の影に怯えていたのである。だからアレキサンダーは馬の鼻を太陽に向けてやった。このように、不機嫌への有効な対処法のひとつは、目を背けること、無関心である。不機嫌は、下手に刺激するとますますひどくなる。しかし、不機嫌は、放っておけば、動物が巣に戻るように戻っていく。不機嫌になっている理由はしばしば疲れているからだったり、あまりに長く立ち通しだったからである。不機嫌な人には椅子を差し出してお茶を出してやればよい。

他の対処法は笑うことである。笑いながら怒ることはできまい。楽しい顔をして、暗い気持ちになることもできまい。猫背だとだんだん暗い気持ちになってくる。遠くのものまで見通せるように背筋を伸ばせば、自分のことばかり考えた結果自意識過剰になることも減る。幸せだから笑うのではない。笑うから幸せなのだ。まずは、微笑んでごらん。まず自分が微笑まなくて、誰が微笑むのか。(ただしアランは、事故・病気・愛する者の死といった本当の不幸については、述べていない。本当の不幸は、身体を動かすくらいじゃどうしようもない。アランが述べているのは不幸な気分についての対処法である。アランは本当に不幸な人についてではなく、自分で自分を不幸だとみなそうとする者に対してのみ対象として語っている。そして大方の不幸な人は実はこちらのタイプの不幸な人であることを忘れて、大袈裟に悲観して自分に酔っている。)

さらに、不機嫌を増幅させたり、他人に伝染させないためには、礼節が必要だ。フランス語で礼節はポリテスという。ポリテスは「磨かれた」という意味だ。ポリテスはしなやかな表面という意味もある。また「皮膚で囲まれた自分」という意味もある。礼節は、自然な物腰であり、処世術(生活の知恵)でもある。自然物でもあり、人為的技術でもあるものが、習慣だ。だから礼節は習慣化されなければならない。礼節があればあるほど、中に包まれた幸福は膨らみ、堅固になる。自分を大切にしないのは、自分に対する無作法である。自分にも他人にも礼節を払って感情に流されずに生きなければならない。

礼儀とはダンスあるいはフェンシングの剣裁きのようなものだ。規則をいくら覚えてもダンスはうまくならない。教本を片手にダンスが踊れるものか。相手に息を合わせて、自然にうまく動けるようになって初めてダンスらしくなってくる。礼節は習慣化されていなければならない。上級者のダンスをするためには、訓練されたスムースな動きで息をピタリと合わせねばならない。過剰に意識するのではなく、半ば無意識のうちに相手に敬意を払えるようになることこそマナーである。

さらに、同情も禁物である。なぜ無闇に同情してはいけないのか。相手への哀れみや同情は上から目線である。人は自分の持っている希望しか、他人にはやれない。アランが同情を戒めるのは、「元気になれ」とかむやみに励ませということでもないし、不幸な人に対して、冷酷かつ無関心であれというのでもない。不幸な人には、端的に言って、快活な友情を示すべきなのだ。誰だって、人に哀れみを引き起こさせることは好まないのだから、もし自分がいても健康な人間の悦びを全く消し去りはしない、それどころか増やすということが不幸な彼にわかれば、彼はたちまちに立ち直り元気が出るだろう。彼の存在の価値に気づかせるべきなのだ。こういう信頼関係こそ素晴らしい妙薬である。反対に、同情という情念に突き動かされるのは危険だ。信頼されていると分かれば人は自然と元気になる。他人が不幸であっても、自分の幸福と彼の幸福とを比較して同情するのは彼に失礼かもしれないし、また、自分の幸福を彼に対して後ろめたく感じるのも全く間違っている。他人を束縛するべきでない。自分を大切にしなければ何も人に与えることができない。喉が渇いている人に水を与えるのではない。共になにかをすること、かたわらにあって信頼していると伝えること。自分の価値に気づかせること。これが倫理的なのだ。だから、身近な人が不幸なとき、同情してはいけない。誰も人に哀れみを引き起こさせることは好まないのだから、むしろ、君がいるだけで元気になるんだという生命の力を与えようではないか。ポジティブな方向へと考えよう。生命の力がなければ、そこに存在していることさえできない。君がいても、君の周りの人間の喜びは減らないし、むしろ増えるのだということを伝えよ。君には存在する価値があるし、存在することができる。不幸な人に同情して、自分の幸福を後ろめたく思うのは愚かだし、同情しつつ密かに相手を下に見るのはさらに愚かだ。そうではなくて、自分の快活さを他人に伝えていくべきなのだ。

自分の不幸を無闇に他人に話して聞かせてはならない。他人に言われた陰口を気にしてはならない。そして他人を束縛してはならない。幸福になることは他人に対しても義務である。自分のために獲得する幸福は、もっとも美しく寛大な他人への捧げものである。幸福になることを意志することは、他者に対する捧げものである。自分の中に幸福がなければ、それを他人に与えることなどできるはずかないからだ。人と人との繋がりは、雨や風のように、天気によって左右されるようなものでは決してなくして、自らが意志的に作り出していく果実である。友達に対する礼節と習慣によって、おいしい果実を作り出していくべきだ。

どんな状況でも生存していることの意味を大切にして、見失ってはならない。要するに、幸福に関しては、どこに普遍的な基準が転がっていたりはしないので、推論することも、予見することもできないのである。そうではなくて、今現に幸福を持っているのでなければならない。もし幸福が未来の中にあるように見えるときは、よく考えてみるがいい。それはつまり、あなたが既に今その状態で、幸福を持っているということなのだ。希望すること、そのことが既にして、幸福であるということなのだ。どんなに辛い状況にあっても、具体的目標を持ち続けること、目標に向かって努力をし続けることが既にして幸福なのだ。さらに進んで、幸福になろうと決意した人々に対する褒美として、市民が市民に月桂冠を授けることを提唱したいではないか。

アランは幸福が実体的なものではなく、非実体的なものとして捉えた。幸福であるためには、常に意志していること、今生存していることの意味を幸福として捉えていくことが必要なのだ。逆に言えば、たった今も、努力していないと不幸や悲しみは常に入ってきてしまうということだ。人間は不幸になることがとても簡単な生物なのである。

努力しているということが既にして幸福なのではないか。つまり、努力感があるということ、個体が行為の中にあると感知するということ、私がある行為をしているということ、行為の中で努力感を感じているということ、このことが既にして、幸福なのではないだろうか。つまり、幸福はどこかに存在しない。幸福を目指して行為するその意志こそが、既にして幸福なのではないか。幸福への無限の道程を歩いているという努力感、やりがいと共にあること。何らかの行為をしているということの僥倖。逆に言えば、幸福にたどり着いて、確固たる幸福を掴み取った時、人は真の意味での幸福を失うのだ。

そして、人間関係の中で相手に期待しうる唯一のこと、それは、お互いの本性を認め合い、相手が自分自身であり続けるのを求めることだけである。その人があるがままの姿であるのを望むこと、それが真の愛である。
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