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愛情の決算のニューランドのレビュー・感想・評価

愛情の決算(1956年製作の映画)
4.4
この明らかに俳優として偉大な足跡を残してるひとを、映画史上の最良の作家のひとりであると確信したのは、たかだか数年前に過ぎない。その数年前には、女流云々を超えた映画作家・田中絹代の偉業を目にしていた。いま、パッと思いつく20Cにも少しは観ていたが、寡作か紹介の機会少なさで断定に至らず、、21Cになって真に偉大な映画作家と断言しなくてはならない驚愕を与えてくれたは、商業映画では(戦後スタートの)佐分利と金綺泳、(戦前の)伏水修とJ・コンウェイ、(前衛では)N・ドースキーとP・ハットンの6人というところか(20C末迄少し遡り、逆にポピュラーで多作家も凡百低俗ともみられてた人らも対象とすれば、じつは巨人・名人、L・フィヤード、野村芳亭、田中重雄らも、個人的な遅れた大発見)。
中でも本作は、映画的造型力に余りに心血を注ぎ立派も少々窮屈だったこの作家の初期作品に比べ、批評家向け高尚さも薄まって一般娯楽映画に並べても変に浮き上がらない、過度の心理主義的描写の貫きはあるものの(主要人物の目線の送り・外し・伏せ・次々合戦?の瞬間・立体力、しかし多方向的・且つ着実な視角・情況と絡み溶け合う中、真の映画的密度が生まれ育まれ)、戦後日本の風俗史・精神史としてじつに語るべき感銘・実感を持っていて、(時制切替え・群像劇の)脚本・(微細移動と枠取りの)撮影・(鋭い部分)照明の力も相まって、作家の最高傑作という以上の最良の戦後を総括・代表する日本映画足り得てる(あまりに構え・スタイルが違うので気づきにくいが、テーマ・群像・形式と、10数年後の『儀式』の先取りと言えなくもなく、質的にも大島の5大偉篇の最終作にそう劣ることもない)。このふたりの夫婦としての出発点前後がなく、ラスト前妻の離反・家出シーンが直接対応するものを欠くのは、特殊性を除き意志と高邁さを失った戦後の一般性を持たせる脚本の狙いなのか、描写がこれだけ四方八方に都度のスタンス・心理が行き渡っている以上、手応えがここだけどこか漠となっている、しかも接写中心のカッティング・照明・微妙なカメラ移動も併せ、リーンの『逢びき』的に決定的に説明を超えて怖い。程度の差あれ、幾分かアプレ成り得てる、説明可能な他の人物に比べ、主人公の闇は表面の葛藤を超えて実存しているものなのかも知れない。社会・歴史性のある物も得意めだが、演者として他作ではあの武骨も頼もしさ、見るからの巨躯・威厳に相応しいキャラクターなのに、自作自演の場を与えられると、見かけに反する小心・無気力者、女たちからも軽んじられ、粗末に扱われがちの中年男の悲哀を好んで演じているのが面白い、というか作家的特質である。
闇成金から洒落で財閥と呼ばれる程へ、学生から新聞記者へ、警察予備隊にはどうもから元々の警官へ、比島の教えられた癖から窃盗犯へ、家族ぐるみ居候からパチンコ屋開業へ、妻子を残して比島病死の元画家のひとりを除き、部隊の戦友らはそれなりに割り切って戦後10年を生き抜き馴染んでゆく。終戦時皆より年長30代半ばで、戦死画家の残された妻子を押し付けられたかっこうの元軍曹は、そんな中、軍国主義に染まり信じ・人生の形成期をそこに奪われたせいもあり、新しい現実に目を向け対峙したり、そこに生きる術や抜け道を見出だすことができない。何かに真に怒ることもせず・出来ず、現実から離反・現実の方からも突き放してきてることを感じてても、現実から目をそらし続け自らの背を丸めること、無意識に自分から逃げ続けることしかできない、趣味の誰にも容赦ない囲碁を除いては社会的に役立たずであり続け、適応性零を抜けきれぬばかりか、敢えてすすんで甘んじてる。夫の反応に瞬間感覚・生理的な拒絶の目線の送りを避けられぬが強まってゆく妻ばかりか、終戦時10才の孤児だった少女も自ら受け入れ・決断も有りうる世界に線を引ける、誰もに(近代的)自我が育って来てるという中、決定的に遺物化してゆく。いつしか消極的も逃れられない人間的感情の共通認識で通じて来てた義理の息子に、戦後も大事に飾っていた鉄兜を棄ててもらうのが精一杯。しかし、そこに他面で日本人として、世相を超えて存在し続けた自己証明・こだわりの一片とそれとの訣別の意味をある面、(自己に向けても)突きつけてあるがままの複雑さを目の前に取り出してもきている。
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