netfilms

雨にぬれた舗道のnetfilmsのレビュー・感想・評価

雨にぬれた舗道(1969年製作の映画)
4.3
 冒頭のフランセス・オーステン(サンディ・デニス)の歩き方は何かしら寄る辺なき思いを抱えた未亡人の寂しい歩行に見える。メロドラマ的には恋に破れ、新たな別の恋を受け身に待つ女性にも見えて来る。然しながら今作のヒロインはちっとも受け身ではないし、三十路のお金持ちのおひとり様なのだ。カナダはバンクーバーの裕福なアパート。ここで彼女は恐らく同じ棟の住人たちと呑気に貴族のような昼食会を開催するのだが、窓の外の風景に目が留まる。秋の冷雨に打たれる公園のベンチでは1人の男がずぶ濡れになっている。風邪を引くからと心配した彼女は青年(マイケル・バーンズ)を自分のアパートに招き入れるばかりか、濡れた服を脱がせ、風呂に入れたり食事を与えるなど至れり尽くせりの接待をしてやる。そこに浮浪者への施しが1mmもないとは言えない。だが少し意地悪な言い方をすれば、彼女はベンチに座っている男が老人だったら、同じような施しをしただろうか?フランセスはおそらく、1回りも年の離れた若い青年を何らかの目的があって自宅に招き入れる。その時点での彼女の姿は姉のようでも母親のようでもある。だが彼女がどんな言葉で応答を試みようが、若い男は一言も声を発しないのが不気味に映る。声を発しない応答というのは、YESでもNOでもある。言葉を発しない以上、どちらも含んでしまうと思った方が良い。つまりそこには彼女の○○であって欲しいという想いが多分に含まれる。

 これは典型的な過干渉な応答ではないだろうか?何でもしてくれる母親に対し、何も言わなければそれでアリになる。言葉で自己主張しなければ全てはなし崩し的にアリになるのだ。然しながら夜は部屋のドアのカギを彼女が閉めていると知った青年は窓を開け、母性の過干渉的な束縛から果敢に逃走を試みる。彼女の住む高層アパートの表側からは想像がつかない裏側の造形に笑ってしまうが、非常階段を駆け下りた彼は一目散にどこかへと走り出すのだ。辿り着いた先はみずぼらしい低層アパートで、ラズロ・コヴァックスのカメラはこのアパートの上り下りを左右に揺れるカメラの挙動で丁寧に映し出す。この家の様子でギョッとするのは青年は実は普通に話せるのだ。その後青年は船の中で姉ニーナ(スザンヌ・ベントン)と会い、自分たちの境遇とはまったく違うブルジョワジーの夫人に声を掛けられたことを切々と語るのだ。然しながら当初は善意の第三者に思えたフランセス・オーステンが何だか途中からどんどん怖くなって行く。明らかに距離感がおかしくなり出した辺りでこれは飼い主とペットとの間柄ではないかと思い始める。強迫観念の裏返しとしての妄執は彼女の「不妊」とも重なり、性の檻にヒロインを閉じ込める。69年と言えばフリー・セックスが横行した時代で、彼女の持つ規範や貞操観念が逆に歪さを掻き立てる。その後の展開は心底とち狂っているが彼女はそれをいとも簡単に粛々とこなす。未配信・未ソフト化と聞いて有楽町に勇んで出掛けたものの、昔VHSで思いっきり観ていた作品だと開始10分で気付いたが、当時よりも今観た方が刺さる奇妙な作品。いわゆるシャンタル・アケルマン以降の世界線にジャストフィットな傑作。
netfilms

netfilms