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華麗なるギャツビーのKKMXのレビュー・感想・評価

華麗なるギャツビー(2013年製作の映画)
4.3
 アメリカ文学の傑作にして村上春樹が愛してやまない原作とのことで鑑賞。原作をどれくらい忠実に再現しているかわかりませんし、ヒロイン・デイジーの内面描写はおそらく現代的にアップデートされていると予想しますが、非常に良かったです。村上のヤローが原作好きなのも想像できました。


 空前のバブル景気に浮かれる1920年代アメリカ。作家を諦めてウォール街で働く本作の語り手・ニックは、隣の大邸宅に住む謎の男・ギャツビーに興味を持ちます。ギャツビーは来る日も来る日もド派手なパーティを開く大金持ちですが、正体不明の人物でした。ある日、ギャツビーからパーティの招待状を受け取ったニックはついにギャツビーと知り合います。そして、ギャツビーはニックの従姉妹で大財閥の御曹司・トムの妻であるデイジーの元恋人で、デイジーとヨリを戻したいと考えていることがわかります。ニックの仲介で再会したギャツビーとデイジーですが、ギャツビーの『過去を再現したい』という強い思いと、強引で気持ちを慮らない態度にデイジーは戸惑い、揺れ動く……というお話です。


 今回はギャツビーとデイジーに注目して考察していきます。


 ギャツビーは貧農の生まれで、金持ちと知り合いチャンスを掴んだ成り上がり者です。社会の底辺から財を成すのは並大抵では不可能で、本人も非人間的なタイプであることが定番です。凄まじいエネルギーで前進し、渇望を実現させていくタイプです。しかも、ギャツビーは結構なナイスガイです。ダーディーなことに手を染めてますが、本質的には邪悪ではなく、勤勉なタイプだと感じました。本作の語り手であるニックはギャツビーに「あなただけに価値がある」と伝えており、ギャツビーのパワーだけでなく、どこかピュアな精神性に心打たれていたのだと推察します。
 しかし、ギャツビーのエネルギー源はデイジーへの妄執でした。デイジーを手に入れたい、デイジーと恋人関係だった5年前に戻り、過去を再現したいという思いにより前に進めたわけです。これは諸刃の剣というか、必ず行き詰まるパターンです。何故ならば、いくらカネを持っていても過去に戻ることはできないからです。こうしてギャツビーは絶対に勝てない戦いに無謀にも挑み、敗れ去っていきます。

 成り上がりの金持ちが転落していく話は、諸行無常と言えなくも無いですが、この一言で終わらせるには本作勿体無いです。ギャツビーの没落は、明確に自分自身に原因があるからです。
 何故ギャツビーは没落したか。それは、自らと向かい合わないがために内的な成長がなされず、ギャツビーの課題である過去への囚われを克服できなかったからだと思います。もしどこかで現実を受け入れて、満たされない我欲と葛藤して苦しみ、そのプロセスを生き抜くことができたら、ギャツビーはさらなる成功に到達したと思います。そして、生まれ変わったギャツビーに相応しいパートナーが現れるでしょうね。
 言い換えれば、ギャツビーのように才能があり、純粋さも持ち合わせたパワーある人物であっても、過去に囚われて内的な成長がなされなければ破滅するのです。ギャツビーのように派手に散るパターンでなくとも、表面的に成功が続いていても満たされずに虚無に苦しむ人生が待っているでしょう。

 原作を読んだ村上春樹は「成長しなければならない」と感じたそうです。反面教師的な感覚ですね。おそらく、囚われからの脱却、執着の手放しの必要性を感じたのではないでしょうか。ではどうすればいいのか、と考えた村上は、非日常でイメージの世界に降りて、深いところで自分と向かい合い対決すること、つまり、異界体験における死と再生という、人間の成長の本質を掴んだのではないか、と想像しています。

 とはいえ、語り手・ニックがギャツビーに贈った『グレート』という形容詞からは、素晴らしい力を持ちながらも内的な弱さで去っていったギャツビーへの惜別の念を感じさせます。ニックはギャツビーを敗者として断罪するのではなく、ある意味純粋に生きたギャツビーへの素直な畏敬を抱いていたと感じました。


 続いて、デイジー視点の考察をします。デイジーはかなりdisられているヒロインのようで、『ギャツビー デイジー』でググると、予測変換で「最低」「ひどい」「クズ」が出てきます。こりゃひどい嫌われぶりですよ。
 確かにデイジーは自分を持ちあわせず、アプローチをかけてくるギャツビーと、金持ち夫トムを天秤に掛けているフシもあり、結構ひでぇ態度も取ってました。

 しかし、デイジーの内面に注目すると、デイジーは1920年代にハイクラスの女性として生きることの悲しみが伝わってきました。本作の悲劇性は自由に生きて勝手に破滅したギャツビーよりも、環境的にも生育的にも自分自身を生きることができないデイジーにあると思います。

 デイジーは序盤、「女は美しいバカが一番」と語ります。言葉通りに取ればいかにもクズ女って感じですが、この時のデイジーの諦めたような表情は胸を打ちます。つまり、デイジーにとっては、女性は可愛いお人形として生きるしかなく、自由に、自己実現的に生きることなど不可能な育ちと環境なのだと推察できます。力を持った男の顔色を窺って生きざるを得ず、その結果、この言葉が出てきたのだと思います。
 実際、ギャツビーもトムもデイジーを自分の欲望の対象、所有物としてしか扱っていません。デイジーはホモソーシャルの景品みたいな扱いなんですよ。デイジーに娘が生まれた時に別のナオンとセクロスしてた疑惑のあるいかにもなクズ野郎のトムはともかく、ギャツビーも「デイジーを俺のモノにしたい、トムに勝ちたい」しか考えておらず、デイジーの気持ちに想いを馳せず、尊重はしません。そのような世界に生きるデイジーは虚にならざるを得ないですよ。デイジーだって、ホントは美しいバカとして生きたいなんて思っていないと思います。しかし、時代的な背景も含めて、そう生きるしか選択肢が無いのだと感じました。
 原作では不明ですが、少なくとも本作では男性セレブ社会に翻弄されるデイジーの悲しみは描かれており、この辺は2013年の作品っぽいですね。これが2023年であれば、もっとデイジーの悲しみに焦点が当たったと思います。

 デイジーを考える時、モデルとされるフィッツジェラルドの妻・ゼルダのことを念頭に入れる必要があります。ゼルダは社交界の華で、ゴシップセレブの嚆矢と言える存在でしたが、彼女はどうやら本当は自己実現的に生きたかったように思えます。彼女は小説家やバレリーナを目指したのですが、夫のように生きることはできませんでした。そして、ゼルダは精神疾患を発症し、後半生は闘病に費やされました。デイジーもゼルダも、女性が自分を生きることが許されない時代の悲しみを現代に伝えていると思います。
 デイジーと対になるのは、『あのこは貴族』の華子だと感じています。女は美しいバカを地で行く人生から、自分を生き生きと生きる魅力的な女性に生まれ変わった姿は、100年で時代は進んだな〜、しかしそれでも華子のようにデフォルトで自分を生きられない環境がまだまだあるのは人類遅れてるわ〜と思わざるを得ないですね。


 原作は1925年。こんな本質的で自己批判的な話をジャズエイジど真ん中の時期に書いたフィッツジェラルドはホンモノですね。この時期、フィッツジェラルドとゼルダはバリバリにゴシップセレブとして狂乱の日々を送っていたワケっすからねぇ。こんな半分予言書みたいな本作は、ドロップ直後はやはり商業的成功はしなかったみたいです。

 本作はバズ・ラーマンの絢爛な演出(とはいえド派手なのは前半のパーリィ場面くらいか)は賛否両論だったようですが、個人的にはアリ。ジャズエイジの狂乱をEDMで上手く換骨奪胎していたと思います。本質は一緒ですので。

 演者について。ディカプリオは年々メタリカのドラマー、ラーズ・ウルリッヒに似てきてますが、この頃はさほどラーズ化してないっすね。ただし、水道橋博士感はあります。
 ニックと少しだけいい関係になりそうなショート黒髪美人・ジョーダンがすげぇ最高で、品もあってかなり好きになりました。ショートで好きになるって、ロングヘアフェチの自分としてはかなり異例。エリザベス・デビッキさんという方で、191センチの長身!しかもすごい優等生みたいで、育ちが良さそうで最高ですね〜💕
 ちなみにデイジーは声がスカヨハみたいにガサガサしたスナックのママ声だったので、ぜんぜん良くなかったです。
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