YasujiOshiba

塀の中のジュリアス・シーザーのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

-
備忘のために

○これはドキュメンタリーではない。フィクションだ。たしかに舞台も出演者も本物なのだが、あくまでもフィクションとして、映画が目指されている。タヴィアーニ兄弟は、このときヴィットリオが83歳、パオロが81歳。ほとんど引退に近い状態だったふたりは、刑務所の囚人たちによる演劇を見て、映画作り絵の情熱をふたたび燃え上がらせたという。

それは、この映画の舞台にもなったローマのレビッビアの刑務所。そこでの囚人たちによる演劇に招かれたタヴィアーニ兄弟は、最初は疑わしく思っていたのだが、その舞台に衝撃を受けて、たいへん感動したのだという。ある囚人がダンテの『神曲』の時獄篇のパオロとフランチェスカの悲哀の一節を朗読したというのだが、そのときこの囚人は、ダンテの言葉をじぶんのお国訛りで読み上げたという。タヴィアーニ兄弟は、もちろんその有名な一節をよく知ってた。少なくとも、よく知っているつもりだったのだが、囚人がみずからのお国訛り=俗語で(まさにダンテがそうしたように )読み上げたとき、その価値を改めて認識することになったというのだ。

このときの舞台の経験を映画でも再現してみたいというのが、80歳をすぎた兄弟の胸に燃え上がった情熱だったという。だから実際、シェークスピアの言葉は、登場する囚人たちがそれぞれのお国言葉、ナポリ方言、ローマ方言などで朗々と語るのだけれど、その響きが実に、実にすばらしい。ぼくはローマとナポリの方言は聴き慣れているから、表面的には粗野で荒々しいのだが、じつに細かい感情の機微を、シンプルながらも微妙な抑揚で表現するときのリアルさは、ほとんど感涙ものなのだ。おそらく、その言葉を知らないものにも、そのリアルさは十分に通じるはずだ。実際、2012年のベルリン映画祭では金熊賞に輝いている。

○もうひとつ。じつにタヴィアーニらしいのが、シェークスピアの解釈だ。有名な「ジュリアス・シーザー」はそのままのストーリーのなのだが、ピサの兄弟がカメラに追わせるのは、アンソニーよりもむしろブルータスなのだ。

偉大なるシーザーが堂々とした体躯の父なる存在として登場するとすれば、ブルータスは青白く痩せている革命家。それは、ピサ生まれの兄弟が、デビュー当初から追いかけてきた系譜。すなわち、 「焼かれるべき男 Un uomo da bruciare」(1962)の労働運動家のサルヴァトーレ・カルネヴァーレ(1923-1955)であり、トッリャッティの葬儀に集まった『危険分子たち i sovversivi 』(1967)であり、『蠍座の星のもとに』(1969)のスコルピオイデたちであり、『聖ミケーレの雄鶏さん』(1972)のアナーキストの革命家ジュリオ・マニエーリ(G.ブロージ)であり、『アロンサンファン』(1974)の革命家フルヴィオ(マストロヤンニ)。そのすべてが、ほとんど滑稽なまでにユートピアへの情熱にかられ、それゆえに運命付けられた敗北を生きる者たちなのだ。

堀の中の囚人たちは、たしかにタヴィアーニが描いてきた「敗者」たちの系譜に連なるのだが、それだけではない。たしかに敗者ではあるが、だからこそその表現者として存在感には圧倒的なものがあり、だからこそそれは叙事詩となり、壮大なメロドラマとなり、光の芸術としての映画のユートピアを立ち上げる。

すごい。まいった。脱帽して最敬礼です。
YasujiOshiba

YasujiOshiba