追悼西田敏行⑤(最後です)
死はただの「いなくなる」ではないんです。
僕らは「生物」であることに抗ってきました。生物は死ぬと生きるは直線状にあります。生きて死ぬ、それが当たりまえです。でも僕らはそれに抗います。だってあまりにそれでは哀しいではないですか、あまりにそれでは辛いじゃないですか。
そしてそのために「死」を祭事にします。そして死を悼みます。でも多く死ぬことがあればあるほど、それは「剥ぎ取られて」しまいます。戦争、災害、伝染病、それらの「死」は僕らの大切にしていることを「剥ぎ取って」しまうんです。
第二次大戦の大量死はあまりに「死」が日常であることになり「人→生物」だということを見せつけられました(だからこそ一次大戦や二次大戦の後は死を特権化する小説、映画が多く生まれます。大戦以降に推理小説が濫造され死を特権化したとは笠井潔が喝破しています)。スピルバーグの「プライベートライアン」は大量死に抗って作った作品だと思ってます。
本題です。
今作でもそれは多く見られます。僕らは震災の前で「生きる/生きている」を剥ぎ取られてしまいます。生体から死体になる。それはそのまま僕らの「人間として生きていく」を剥ぎ取る行為です。そして西田はそれに抗います。死者を死体と呼ばず、「ご遺体」と呼ぶ、死者が話すわけないのに必死に話かける。その行動は僕らが「人間らしくありたい」そう思う行為の発現です。
なぜ人は動物とは違うのか。それは「死をしっかりと認識する」からかもしれません。ある意味それは傲慢です。動物と同じように死は死でしかないのです。でもそれでも。
僕らは自分があることを認識します。死を大切なものとして受け止めることで(いや受け止めようとすることで)僕らは前を向いていくのかもしれません。劇中、西田が悲しみながらもしきりに「前を向いている」ことを思いました。彼は確かに死を悼んでます。でもそれ以上にいまここにある世界を大事に思っているのかもしれません。
そんな西田も亡くなってしまいました。しかもあっけなく。死は「僕らの人生」を(あっけなく)剥ぎ取ります。西田もあっけなく「剥ぎ取られれ」ました。でも彼には映画があります。彼が演じていた人物がいます。そんな中で彼は「人間として」僕らを(死んだ今でも)楽しませてくれます。そして僕らはそれを見て「死」から抗うのです。生きている証として。
※多分誤読だろうけどぼくはこの映画を西田の鎮魂歌として見ました。それは誤読も誤読です。後半泣いてしまいましたがそれはこの映画に泣いてしまったのか西田の死を悼んで泣いてしまったのかすらもわかりません。それでいいかなと思ってます。
※西田のセリフを思い出します。「死んでも誰も悲しんでくれない老人がたくさんいるんです。一人で死んで」。僕は坂口安吾の信奉者なんでそれでいいと思ってました(今でもそう思うときが多いですし、自分の葬儀はやってほしくないといまだに思っている派です)。それでもそう思う気持ちは理解できます。少し。いや結構理解しているかな。うん、僕にも人並の心があったんだと驚きます。
※これで今回の西田ウィークはおしまい。5作見たけど、西田優しすぎるぜ。やっぱりあの優しさを見れないと思うと寂しい。