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ザ・マスターの教授のレビュー・感想・評価

ザ・マスター(2012年製作の映画)
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ポール・トーマス・アンダーソンの5作目。
「意味がわからない」という評判を聞くけれど、僕はさほど難解には感じなかった。
むしろ、ポール・トーマス・アンダーソン作品ではトップクラスに好きな作品かもしれない。
一作毎に、映像が進化していく面白さ。
とにかく、全てのカットと言っていいほど、画面の豊かさ、撮影と照明のクオリティの高さ。
フィルム=映画、とも言える質感に、巧みなピンと送りや衣装や背景、空間の奥行きを絶妙にコントロールされたショットの上品さと、ストーリー上に繰り広げれる下品さも含めて、振れ幅が物凄い。

そして、フレディを演じるホアキン・フェニックスのアドリブによって構成されていく表情や、身体性を駆使した演技の自由さも作品のテーマに組み入れられ、演出という作為によって、この自由さを「コントロール」するという実験性もある。
この実験性は、まさに本作の通底する「自身の抑えの効かない衝動と制御」についての物語と呼応している。

そのモチーフはもうひとりの主人公であるフィリップ・シーモア・ホフマン演じるランカスターにも呼応していて、一見はコントロールに為に、宗教的セラピーと啓発、研究と称して振る舞うランカスターもまた、宗教のカリスマとして存在しつつ、息子や妻に心底信頼されているわけでもなく「イカサマ師」でもある。しかし、実際のところランカスター自身は、自身が取り憑かれている研究に対しては、ストイックに情熱を傾けてもいる風にも描かれている。
そして多くの信者を獲得し、成功したとしても、ランカスターが最も自分の考えに寄り添って欲しかったのはフレディであるにも関わらず、彼のことはどうしてもコントロールできないという切なさがある。

根底では通じ合っていても、それぞれが独立した個人である以上、どんなに抗っても自分の感情すら、コントロールはできない。
できることは、それぞれの個人が、個人が徹することのできる生き方に帰結して、悟るということ。
そのそれぞれの「悟り」が本作の結論でもある。
それぞれが、それぞれであっても。
その関係が上手く言っているその瞬間の尊さと、それが過去になっていく時には、思い出として噛み締めていく尊さと、それらを抱えて生きながらえていくのだという、非常に大人な諦観を映していて、今作も相変わらずの傑作に仕上がっている。
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