雪に閉ざされたゴーストタウン、プリピャチはチェルノブイリ原子力発電所で働らく労働者のベッドタウンとして作られた町らしく、発電所から3キロ程度のところにある。1986年にメルトダウンが起こり、プリピャチの住民は着の身着のままに、避難することになった。発電所の事故から10年経った頃を描くこの映画の中で、プリピャチの町は、特別な許可とガイドを伴わない限り、立ち入り禁止区域となっている。なお、wikiの「チェルノブイリ原子力発電所事故」の項によると、ウクライナの作業員の86.9%が被爆しているらしい。
福島で原発の事故が起こった年に、チェルノブイリ原発事故とその後について書かれた、外国人ジャーナリストによる、ある記事を思い出す。それによれば、セシウムとストロンチウムの半減周期は約3年であり、人間がごく普通の生活をできるようになるには、10半減期かかる。つまり300年だ。原発の死には始まりがある。つまり原発は永遠ではなく、いつの日か必ず壊れる。しかし、と記事は言う、原発の死に終わりは、ない、のだ。チェルノブイリの原発が「死んで」以来、無数の労働者が駆り立てられてきた。賃金の一部が未払いになってしまうほど多くの人が徴用され、「死に-終わらない」廃炉の世話に永遠に従事してきたし、今日も、明日も、100年後も続く。既に、2000年の追悼式での発表によれば、ロシアの事後処理従事者はその時点で86万人が亡くなっているにもかかわらずである。そう、いつか原発は壊れ、死を迎えることになるが、人間的な時間感覚のなかで、その死が終わることはない。
この映画はプリピャチとスラブティチという二つの町を舞台にしている。プリピャチは、先に述べたように、チェルノブイリ原子力発電所のベッドタウンであったので、そこから大勢の人が避難した先の町が、スラブティチである。
映画は主に2組の人物たちをめぐる。一方はオルガ・キュリレンコが演じる女で、母と避難したスラブティチに恋人もできたが、発電所の周辺の外国人向けツアーのガイドをしている。女はガイドでプリピャチに短期滞在をする仕事なのだが、プリピャチにも、つまり死の町にも、恋人がいる。女は2つの町の2人の恋人に引き裂かれている。一方はおそらく未来に繋がっており、一方は過去に繋がっている。スラブティチの恋人は優しくロマンチックで、将来はパリに住もうと誘ってくれている。プリピャチの恋人はがさつで、貧しく、何よりこの死の町に残るのであれば、自分の髪の毛は残らず消えてしまうかもしれない。何という不恰好なカツラだろう。
女は言う、プリピャチの町とは比較にならない天国のような、ウクライナ南方の港湾都市オデッサまでやって来て、次はパリで新生活をしようというところで。
「私は過去に取り憑かれている人間なの。過去を振り払えないの。私が過去を語らなかったら、誰も語らないことになる。」
もう一方の組の人物たちの物語は、父を探す息子が中心になる。原発事故の事後処理で死んだ人々の慰霊ツアーで、少年は脱兎のごとく走り出し、プリピャチの廃墟に身を潜める。人のいない町で、少年は死んだとされる父にメッセージを残す。
あまりに運命が過酷だと、人生は永久停止してしまうことがある。これは雪の町で停止してしまった人々の物語である。
付記
広島に投下された原子爆弾は「リトルボーイ」というやつだが、映画『ひろしま』では、70年間草木も生えない、と米国人が言っている、という話になっていた。しかし、理論上の話だとしても70年と300年ではあまりに違いすぎると思ったのだが、どうも原爆のほうが原発と比べて放射性物質の量が少なく、爆発で消滅する量が多いようである。