孔雀のホームシアター

風立ちぬの孔雀のホームシアターのネタバレレビュー・内容・結末

風立ちぬ(2013年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

この物語に大正頃の古き良き香りを感じたのは,ただその時代が舞台であったことだけに由来するものではあるまい。
空想とうつつの交錯,耽美的な語り口のいずれも,私が愛する当代の小説と重なり合うように感じたのである。

明治−大正−昭和とかけて日本は近代化の道を歩んだ。
文明開化により政治も学問も技術も欧化に成功した一方で,
精神性=個人主義の輸入には苦労したというのはよく指摘されるところである。この苦しみを文学で訴えたのが夏目漱石だ,というのももはや説明は要しないであろう。確かに『三四郎』では,相手を目の前にして,心の内を知ることができないヤキモキが浮かび上がってくる。この悶着は,西洋思想の根本にある「コギト」を受け入れる一方で,その限界を感じるような物悲しい感傷にも近い。そういえば,三四郎が恋心を寄せる相手の名字も本作のヒロインと同様,里見である。

そこに限界があるにせよ,近代化=個人主義化の道を歩むのに「コギト」の受容は欠かせない。そうすると何が起こるか。面倒な注釈の一切を省くとすれば,主観的世界だけが真実化していく。つまり,夢も現実も「私」による現象の把握でしかなくなってしまうのである。
本作の主人公:堀越二郎は,まるで夢と現実が渾然一体となった流体の中をかき分けていく翼である。この流体から”夢”による揚力を獲得し,大空へ羽ばたいていく。そして,彼が獲得する揚力の中でも一際特別なものが,やはりカプローニ伯爵の言葉であろう。
「設計は夢を形にする」
「センスは時代を先駆ける」
これらの言葉が揚力となり,伯爵と語らった夢が重要な推進力=エンジンであったことは,本作を鑑賞した方には共感いただけると思う。

「極限まで主観化された世界は,普遍性を持つ」と言ったのは誰であっただろうか。この物語を,堀越二郎という翼で以て飛び回ってみると数々の美しい情景が目に映る。それは,彼の感じた世界に違いないが,我々もそれを感じることができるのである。
モネの絵を思わせる菜穂子の姿,メフィストフェレスとファウストの魂の契約を思わせる伯爵との語らい,そしてジュラルミンのボディを輝かせながら飛び立つ十二試。
耽美的な主観世界に没入していく心地よさは,中勘助『銀の匙』で感じたものによく似ている。しかし,こういったことが可能なのはやはり,「コギト」を前提にしながらでも,それだけでは語り得ないものがあることを暗示しているのではないだろうか。

ちなみに堀辰雄による同名の小説は未読であるが,そこは悪しからず。