サチコ

風立ちぬのサチコのレビュー・感想・評価

風立ちぬ(2013年製作の映画)
2.0
この映画、まさに「夢」物語でした。堀越二郎という実在の人物をモデルにしているといっているにもかかわらず。第一次世界大戦や関東大震災といった歴史的イベントをベースにしているにもかかわらず。
この映画を見た後、「感動した」といっていた人がおどろくくらいに多かった。それも当然だ、だってこの映画は現実から激しくかい離しているくらいに「うつくしい」映画なのだもの。宮崎駿の美学をすべて投影するために、現実の人物や事象に存在していた醜さや不快なものはすべて排除され、すべてがうつくしく見えるようにゆがめられているのだもの。

まず、1923年の悲惨な大震災が「かっこよく」なっている。たしかに、地震は神のように、モンスターのように、人を超えた力をもった存在として、もののけ姫のときのように描かれている。でも、そこにあったはずの、目をそむけたくなるような無数の死体、腐臭の漂うような光景、血、叫び、絶望、そんなものはすべて消えてしまっている。10万人が無残に殺された震災ではなく、ただの、むしろうつくしい減少として自然のうねり
のように描かれているだけなのだ。こんなふうに、この映画は宮崎駿にとっての「完璧な美しい世界」を邪魔する要素は残らず排除されているのだ。

これは彼の戦争描写についてもいえることだ。当時はふつうの人々は貧困にあえいでいた。生活必需品が足りなくなり、毎日を生きていくのもやっとだったはずだ。でも、主人公とヒロイン、そしてかれらを取り囲む人々はあきらかにエリートと上流階級に所属しているものだから、彼らが普通の人々が経験したような貧困にはまったく影響されていない。ゆえにそのような描写も皆無である。

主人公の発明は、結果として不名誉な「カミカゼ」に使われることになるわけだけど、この映画のラストはちょうど第二次世界大戦の直前で終わるから、そんなことも書かずに済んでいるわけだ。こんなふうに、映画にすこしでも影を作り出してしまう要素はすべて、意図的に避けているわけだ。

結果として、宮崎駿はうつくしさを追求するあまり、現実の出来事との関係性を全くもって失ってしまった。そう、これは皮肉にも二郎と同じ。彼は、うつくしい飛行機を作るという夢を追うがあまり、病に倒れた妻を慮る気持ちと自分の仕事の結果への想像力を失ってしまった二郎と同じなのだ。二郎は、うつくしいものにしか興味がない。妻にも、「君はうつくしい」としかいわないのだから。彼は本当にその妻のたましいまでを愛していたのだろうか。わたしにはそうはおもえなかった。

より高尚な価値を達成するためには、そのような態度は正当化されると考える者もいるだろう。でも、わたしはそう思わない。なにがおきたとしても、わたしたちはわたしたちが生み出す者に責任があるのだから。それに、わたしたちはうつくしい物語をつくりあげるために、事実をゆがめる権利は持っていない。なにがおきようと、真実は真実なのであるとわたしは思う。美学的経験、なにかを純粋に美しいと思う経験は大切だろう。なににも代えがたいものだろう。それはたしかである。でも、わたしたちはほかの人を間違った方向へ導くものではあってはならないとおもう。

パッケージを見返してみて、なにが「生きねば。」だよと思ってしまいました。夢のように夢を生きた二郎の生涯には、生のなまなましい香がしなかったから。人気なのに、評価か高いのに、どうしても好きになれない、そんな映画でした。