しおまめ

かぐや姫の物語のしおまめのレビュー・感想・評価

かぐや姫の物語(2013年製作の映画)
4.6
現存している竹取物語は江戸時代に書かれた写本で、しかし平安時代の源氏物語に存在が記されており、日本最古の物語と言われている。
原文となる漢文は未発見。作者も不明。現存しているのが写本である以上、本来の物語がどういうものだったのか誰もわからない。
そんな竹取物語をアニメ映画として完成させたこの作品は、今まで幾度となく解釈され展開してきた竹取物語のひとつの解、言うなれば”高畑勲版”「竹取物語」と言える。


大筋の話はほぼ同じ。
違うのは、淡白な描写の竹取物語に「人間肯定」という普遍的なものをとり入れたこと。
主人公の姫こと「たけのこ」は、竹取物語同様の誕生をし、都に行くという良く知ってる筋書きをなぞるのですが、そこには彼女の心境の変化というのが細かく、痛々しく描かれています。
そして視覚的に分かりやすいオリジナル要素である「捨丸」というキャラクターも外せない。彼はまさしくこの映画のテーマを司る存在。
野山で暮らす二人は離れ離れになる・・・このとき「たけのこ」だけが別れたように見えますが、「捨丸」の家族が山を移りながらの生業である「木師士」であることから、彼もまた故郷を離れたのです。

「しかしその明日は、姫にも捨丸にも訪れませんでした」

ナレーションでこう語られるように、実は「たけのこ」だけが悲しく悶々とした気持ちで離れたわけではなく、「捨丸」もあの時立場上離れることになったのです。
少しばかり思いを馳せていた二人。二人共自ら故郷を離れてしまったと思ったまま、それぞれが正反対の暮らしを始めるのです。
「たけのこ」は綺麗な屋敷に豪華な身なり。
「捨丸」は草の根をかじるほどの貧乏生活。
そして都の生活の窮屈さ、大人たちの偏見に必死に耐えながら、いつか来る春の季節を夢見て都での生活を営んできた「たけのこ」に身分格差という壁が立ちふさがる。
身なりだけで頭を下げられる。ただただ皆平等に楽しく桜の木の下ではしゃぎまわりたいだけなのに。
同じ世界にいるはずなのに違う世界の人間として扱われる不条理さ。しかし都へ向かわせてくれた翁たち二人の思いは、親として振舞う精一杯の気遣い。例えそれが空回ったものでも裏切りたくはない。
つまり「たけのこ」は到底無理な理想を為そうとする生き方を選んでいこうとするのです。それは彼女がこの世界についてを何も知らないが故に。
そんなときに追い打ちをかけるが如く「捨丸」と再会してしまう。
先の桜の木の光景を目の当たりにした「たけのこ」は、身分格差が顕著な「捨丸」に否定されることを恐れて身を隠してしまう。
一方の「捨丸」は「たけのこ」が予見したとおり、別の世界の存在、手の届かない存在であると思い知らされ、彼は「たけのこ」を想うことをやめ、結婚し、子供をもらう。


この映画は理想を追う「たけのこ」と現実を見据える「捨丸」というふたつの物語が同時に進行している状態。
些細な妥協を繰り返しながらも、必死に理想を目指そうと夢見る「たけのこ」は、竹取物語では有名な宝物を求める展開をして苦しむ。
貴公子たちは「たけのこ」と関わったが故に不幸になった。それは「たけのこ」のせいでもなんでもない。しかし誰もが幸せに暮らせる理想を求める彼女はそれが辛かった。
それは彼女が月にいた頃、微かに覚えている唄に感化されたから。

まわれ まわれ まわれよ 水車まわれ
まわって お日さん 呼んでこい
まわって お日さん 呼んでこい
鳥 虫 けもの 草 木 花
咲いて 実って 散ったとて
生まれて 育って 死んだとて
風が吹き 雨が降り 水車まわり
せんぐり いのちが よみがえる
せんぐり いのちが よみがえる

四季があり、命は生まれ、死に、そしてまた生まれ・・・。
その循環を素晴らしいと憧れを抱いたからこそ、彼女は地球に惚れこみ、しかし月では御法度であるとして地上に落とされた。
生も死もない、極楽浄土の世界とも言える月の世界。地上にいる人間たちはそんな月の世界を苦界(地上)から開放された世界として憧れをもってして暮らしているが、「たけのこ」はその逆。
無いものがあるからこそ素晴らしい。悲しみも喜びも無い、苦しみも無い完璧な世界よりも、不完全で未成熟な世界こそ素晴らしいのだと彼女は思った。
しかし実際は自身の内面を苦しめるものばかり。それを承知で月側は彼女を罰として地上に降ろさせた。これでも地上が素晴らしいと思っているのか?と言わんばかりに。
そして彼女は思ってしまう。

「もうこんな世界からいなくなりたい」

それはほとんど自殺願望と同じ。しかしその感情をもって罰は終わる。
「たけのこ」は立派に地上の穢れた姿を思い知った。これからは邪念を無くし、苦しみ無き世界で暮らしましょうと。
と同時に彼女の内面に大きな喪失感が生まれる。翁たち、友達の女童、そして昔遊んだ「捨丸」とその仲間たち。
草木、虫、獣。苦界の中で生き生きと生を満喫している光景がこれから見られなくなるという多大な喪失感に気づかされる。
でもそれももう手遅れ。来る満月の日に彼女は月へ文字通り逝ってしまう。

死に間際の思い出話のようにかつていた野山へ寄る「たけのこ」。
そこで「捨丸」と再会し、二人は現実逃避ともいうべき喜びを分かち合う。
ここの「捨丸」の不倫状況というのは、まさしくこの穢れた地上を表しているとも言え、
「たけのこ」に思いを寄せ、しかし離れ、再会した時には別の世界の人間ともいうべき存在に。
しかし眼前にいる憧れだった彼女は何も変わっていなかった。自分が勝手に彼女を決めつけていただけだった。
引っかかりが解けた「捨丸」は理想の人間だった「たけのこ」に手をかける。
(非常にファンタジックな飛翔シーンだが、西村プロデューサがこのシーンについてを性交ではないのかと高畑監督に聞いたところ、「まぁそういうふうにも受け取れますね」と半ば容認状態だった)
普通は受け入れがたい光景ではあるものの、それも一種の「捨丸」に対する観ている側の理想であるし、しかし物語の中での「捨丸」の理想は「たけのこ」である。理解しがたいそれぞれの理想が混在する世界。それこそが地上であると言え、「捨丸」の心情と言うのはリアルで、非常に皮肉的。
しかしそれもまた夢だった。地上の存在である「捨丸」にはもはや空想の「たけのこ」は存在しない。彼女はこれから死ぬのと同じであるから。
「捨丸」は現実における最高の理想である妻と子供のもとへと帰る。


満月の日、月の使者たちは喜びの曲をもって「たけのこ」を月へと迎え入れようとする。
月へ還ることは喜びである。この穢れた地上から解放されるのだから。
それを否定するかのように「たけのこ」は必死に訴えるが、使者は問答無用で彼女の記憶を消滅させた。
この瞬間、「たけのこ」は死を迎えたといってもおかしくなく、使者が無理矢理記憶を消させた様はまさしく寿命終えた人の一生を彷彿とさせる。
理想を追い、理想に迷い、理想を叶えることすら死ぬ。
否定だけをして苦界である地上を受け入れようとしなかった彼女。「たけのこ」なりの幸せ、「たけのこ」なりの理想を構築せずに世間から流されるだけの理想を追い求めたが故に、何も叶えなかった些末。
絶望した時は既に遅く、彼女は月への去り際に涙を流す。
意味も分からず。後悔していることすらもわからず。


一種のフェミニズム的映画とも言え、
物言わぬ女性に警鐘を鳴らしているかのようにも見えるけれども、同時に相手を理解することの大事さも伝わってくる。
裏で展開される「捨丸」の気持ちを考えたら、一概に全否定したくないのも事実。この映画はそのビジュアル通り、物語の中でキャラクターたちが本当に生きていると実感できる。
アニメという空想の絵の中で息遣いが伝わってくるほど、描写が非情に生々しい。アニメーションという言葉を十二分に発揮した傑作。最高でした。
なにより「たけのこ」がかわいすぎました。