いのちはまるで大きな糸車のように、果てしなく回っては、複雑で、さまざまな色合いの糸を紡いでいく。一つの生はたくさんの生と交差していきながら営まれてゆく。
たとえば、わたしの血の中にはきっと、父や母、祖父母、その更に前へと遡る見たこともない人々の記憶や思いが流れていて、そうやって脈々と受け継がれてゆき、幾つものいのちがわたしというたった一つの個体を形成している。
喜びも哀しみも、そして愛すら知らず、感情を持たぬ月人が棲む、冷たく無色な月面で、ただ怠惰に永遠の生を貪るよりも、
愚かで無知な生だとしても、誰かを慈しみ、愛し、或いは憎しめる確かな感触、生きているんだっていう手応えが欲しい。
煩悩を断ち切ることはできなくても、春の夜の湿り気をたっぷり含んだ芳しい空気の匂いを胸いっぱい吸い込むような、切り取ってしまいたくなる愛おしい瞬間がたくさんあればいい。
「一輪の花が 美しいならば、生きていよう」
と、川端康成が記したように。
顔を真っ赤に染めて泣きじゃくる乳飲み児かぐやを見ていると、いつも年の離れた小さい妹が赤ん坊の頃を思い出してしまう。
小さく、柔らかな手がわたしの人差し指を弱々しく包み込んだ日。はじめて鈴のような愛らしい笑い声を家中響かせた日。覚束ない足でよちよち歩いた日。舌足らずに一生懸命話しかけてくれた日。
一つ一つの成長に立ち会うたびに、生命は尊い奇跡の積み重ねなんだなあって、心の底からそう思う。
人間は醜い。憎悪に歪められた顔、飽くなき欲望の追従、そして際限なくエゴとエゴをぶつかり合わせる。
一方で人間は美しい。子に乳を飲ませる嫗の顔、農民の汗つぶが浮かんだ額、
幼い妹の好奇心に輝くつぶらな瞳の奥にうつる色彩。
原罪を背負ったわたし達は月人にはなれないし、世界の果てまで歩いてもエデンの園にたどり着けない。醜くも美しく、限りある生命を地上で全うするのみ。
けれど、
桜は束の間、爛漫と咲き誇るからこそ、その儚い美しさは人々の心の奥深くまで優しく染み込む。人の世もひと時まどろむ、たまゆらな夢のように短いからこそ、いたいけなまでに美しく、かけがえのない光を放つ。