晴れない空の降らない雨

愛、アムールの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

愛、アムール(2012年製作の映画)
4.2
 基本的にハネケ作品におけるクラシック音楽は、西洋の伝統的な高級文化の代表ととらえて間違いないだろう。本作では、現代において老化がもたらす個々人の精神的問題と、現代における高級文化の衰退という社会の精神的問題とが、こっそりと重ねられている。
 すなわち、本作は「無意味さ」を主題に据えるのだが、それは個人の生の問題でも、文明の存続の問題でもある。そのときハネケは、カメラの魂なき眼がもつ「残酷さ」(バザン)を最大限に活用する。それは、対象を無意味な表層にしてしまうのだ。
 なんてことない、序盤のあるショットをとりあげてみよう。ピアノコンサートに訪れる観衆を舞台側からとらえただけの、退屈で冗長に感じられる映像だ。カメラも対象もほとんど動かない(あるいは単調で予測可能な動きしかしない)時間が続き、さらにそこから先も何の出来事も期待できないとき、対象が何であれそこからは「馬鹿らしさ」が、「無意味さ」が漂ってくるのである。
 
 老夫婦の幸福な日々は、妻を襲う病いによって、この「無意味さ」に急速に飲み込まれていく。
 文化的水準の高さを物語る夫婦の室内の装飾もまた、老夫婦の緩慢な動作をただ映した映像のなかで空疎になっていく。広々として、高齢者らしいアースカラーでまとめられた趣味のよい家だ。壁には額縁に入った写真や絵画がたくさんかかっている。大きな本棚を書籍やレコードやCDが埋め尽くしている。ところが、物質的にも精神的にも満たされていたこの家も、ハネケの手にかかると、やがて象牙色の扉や壁の存在感が他を圧倒していき、2人をまつる不気味な霊廟のように見えてくる。
 文化とは価値あるものだという信念が失われれば、「高級さ」もただ空疎になる。そして、動物的といえるほど単純な「快/苦」という評価基準が新しく君臨する。そのとき、老いは単なる劣化、苦痛への失墜でしかない。このような問題設定の仕方において、ハネケはやはり、仏の小説家ミシェル・ウエルベックと並べて論じることが可能だろう。
 こうしたことを物語るハネケの語り口は、あいかわらず見事としか言いようがない。アンヌがベッドに横たわっていると、テレビが労働組合のデモを報道しているが、こうした示唆を見逃してはならないだろう。コンサートなど縁のない労働者たちと、かつてピアノ教師だったアンヌとは、今や「生存の問題に支配されている」という意味で同等の存在なのである。次のシークエンスでは、成功した教え子が彼女のもとを訪れ、頼まれて《バガテル ト短調》を聴かせてあげる。しかし、例によってアンヌの反応を映さず、演奏を「ぶつ切り」にして、画面は次へと切り替わる。そこには、電動の車イスを操作してはしゃぐアンヌがいる。……このように配列された出来事のもつ雄弁さたるや。次のCDを聴くシーンはいっそ蛇足である。
 
 もっとも後半の約1時間は、主演2人の壮絶な演技にカメラも圧倒されているようだ。