きょんちゃみ

愛、アムールのきょんちゃみのレビュー・感想・評価

愛、アムール(2012年製作の映画)
5.0

ミヒャエル・ハネケMichael Haneke監督の『愛、アムール』Amour(2012)。

ハネケ監督はオーストリア出身。
この老夫婦を演じるのはフランス人のジャン=ルイ・トランティニャンJean-Louis Trintignantと、エマニュエル・リヴァEmmanuelle Rivaで、言語はフランス語。


ジャン=ルイ・トランティニャンは『男と女』Un homme et une femme(1966)を始めとして多くの映画に出演してきた。

エマニュエル・リヴァは被爆地広島を舞台にした『二十四時間の情事』Hiroshima mon amour(1959)が非常に有名。

『愛、アムール』撮影時には、この老夫婦は二人とも80歳を越えていた。妻が体が不自由になって、自宅で夫が介護するのだが、「病院には戻さないでほしい」と頼む場面がとても有名。

Je t’en prie, ne me ramène pas à l'hôpital.
「お願い、病院には戻さないで」


夫が病院に戻ることをなんとか説得しようとするのだが、

Ne parle pas. Et ne m’explique rien, s’il te plaît.

「しゃべらないで。何も言わないで、お願い」

ときっぱりと言われてしまい、自宅介護ということになる。そして老夫婦は、死と尊厳の問題に踏み込んでいくことになる。


冒頭の『昔のイメージを壊すような昔話はしないでね』というセリフがこの映画のポイントだと思う。

ミヒャエル=ハネケの映画は『ファニーゲーム』が強烈だったので、こんなに優しい映画をハネケが撮っていたとは思わなかった。

『隠された記憶』という映画も観たい。

夫のジョルジュ役のジャン=ルイ・トランティニャン(クロード・ルルーシュの『男と女』のレーサー役だった人)は娘を撲殺されて自殺しようとしたらしいが、ミヒャエル=ハネケに言われてこの映画に出たという。素晴らしい演技だった。

終盤のジョルジュの行動の是非をめぐって、考え込んでしまった。泣きながら枕を押さえつけるとか、コミュニケーションを取りながら同意を得るとか、そういうプロセスのないいきなりの行動だったので、あの是非を観客に考えさせようとして、ハネケがああいう演出をしたのがよく分かる。

いくらでも甘く感傷的に演出できたであろうこの作品を抑制しながら描いていた。

最後まで残る人間の尊厳を停止することの是非って難しい問題である。

妻アンヌにとってエヴァは遺伝子として生物学的に後世に残すものであり、アレクサンドルは弟子として自らの叡智を後世に残すものである。しかしその両者のどれも、死にゆく<この私>ではない。

ただ夫の昔話だけが、聞くに値する(聞くことができる)。インフレの時は家を買うと得だとか、労働組合がストライキをやっているとか、イスラエルとアメリカの関係だとか、そういうニュースが、死にゆく者にとってはひたすら空虚に響く。

エヴァさえ、鍵を掛けた部屋(=死を前にした2人だけの世界)に入らせまいとするジョルジュの振る舞いがとても悲しい。アレクサンドルのCDを止めさせるアンヌも悲しい。

2人の死後も、ただひとり部屋に残った実娘エヴァは、2人だけの世界に何があったのかを、推し量ることしかできないのだ。

論者によって解釈が大きく分かれている看護師が髪を梳かすシーンは、患者と介護者の間にある微妙な齟齬(すれちがい)を表現していたと思う。看護師が(良かれと思って)『ほらこんなに綺麗。みんなの憧れの的よ!』と(雑な仕方で)手鏡を見せると、アンヌは目を背ける。看護師がアンヌをあくまでも人格としてではなく要介護者として(情けをかけられる者として)扱ったことにアンヌは耐えられなかったのだ。こういう、介護マニュアルには書き込めないレベルの微妙なやり取りーその一部は要介護者を傷つけるものかもしれないーが介護の現場で、毎日起きているのだと思う。

最後の鳩は死のメタファーだろうか。最初に入ってきた鳩は『シッシ!』と言って外に追い出されるが、鳩は窓辺に残ってなかなか逃げていかない。二回目に入ってきた鳩は、ジョルジュが毛布に包んで自分から捕まえる。遺書には鳩を『また外に逃がした』と書いていたが、そんなシーンはない。それに、逃がすならば捕まえる意味が分からない。私にはミヒャエル=ハネケのこれまでの映画における動物の扱い方を考えるに、この鳩は死を象徴していると考える。

もし冒頭で開いていた窓からジョルジュが飛び降りたのだとしたら、アンヌの腐敗のために必要な時間から考えて辻褄が合わない。ゆえに、ジョルジュは飛び降りたのではないと思う。しかし、あの密室から出る手段はあの窓だけである。それゆえ、鳩は死であり、あの鳩とともにジョルジュは旅立ったのではないだろうか。2人が旅立った先の天国のイメージは、中盤にアップになる絵画たちがそれを予告していた。
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