ケンヤム

そして父になるのケンヤムのレビュー・感想・評価

そして父になる(2013年製作の映画)
4.5
時間は血を超えられるのか、血は時間を超えられるのか。
人間は血というしがらみの中でしか生きられない。
人間は時間というしがらみから自由にはなれない。
普通、親子の関係において血と時間というものは両立するものだ。同じ血の流れるものが同じ時間を過ごす。
しかし、この映画に出てくる家族のようなことがあると、血と時間という概念に支えられた家族という共同体の幻想は脆くも崩れ去り、それに大人たちは右往左往する。
アイデンティティがある程度確立した大人たちは、血と時間という概念の分裂に苦しみアイデンティティが揺らぐのだ。

比べて子供は揺らがない。
パパはパパなんだなぜならパパだから。
ママはママなんだなぜならママだから。
血というしがらみから自由な子供は、時間という概念からも自由でパパがパパであることを疑わないし、ママがママであることを疑わない。
ということは、自分が自分であることを疑わないということだ。

この映画で印象的なのは、子供が大人から逃げるシーンだ。
まるでトリュフォーの「大人は判ってくれない」のよう。

最後のシークエンスもりゅうせいが、父親から逃げるところから始まる。
彼は、結局父に追い付かれてしまうのだが「パパなんてもうパパじゃない」というこの映画の中で一番反抗的な言葉をこのシークエンスで父に対して吐く。
彼はあの時初めて、血というしがらみに立ち向かったのだ。
彼が父に立ち向かうことによって、「血が大事なんだ」と信じることで思考停止していた彼の父も、血と時間というしがらみに立ち向かわざるを得なくなる。
そして、彼らは双方の家族とともにあの電気屋の中に入っていく。
まるで、双方の家族合わせてひとつの家族であるかのように。

この映画で血と時間というしがらみから、
誰もが自由になるのは遊んでいるときだけだ。
遊んでいるときは、親も子もなく血縁や時間も関係がなく、そこには今しかない。
撃ち合いが楽しいか、凧揚げが楽しいか、釣りが楽しいかそれだけだ。

血と時間から逃れられない愚かな人間。
私たちは、家族から逃れられない。
それでも、その幻想にしがみつくことでしか生きていけないのだ。
私は家族という幻想を見続けなければ、生きていけない弱い人間だ。
ケンヤム

ケンヤム