カラン

ベルトルッチの分身のカランのレビュー・感想・評価

ベルトルッチの分身(1968年製作の映画)
4.0
この作品は1968年の制作である。ジョン・レノンとオノ・ヨーコが「ベッドイン」でLove &Peaceを表現したのが1969年のことだと言えば、どんな時代か分かるだろう。つまり、反戦活動等の政治社会的なレベル(サルトルのangagementアンガージュマンの次元)と、文学やロックやフラワムーブメント等の根源にあるだろう無為のレベル(モーリス・ブランショの言うdesoeuvrementデズーブルマンの次元)が、あり得ないくらいに混ざり合っていた時代である。

しかし、村上龍が小説『69』で冷やかしながら描いていたように、実際にはそういう二極が簡単に融合するものだと考えるのは錯覚なのであって、自己陶酔の狂乱、狂騒の裏側で人知れず進行した二極の遊離から反知性的な反動が起こり、フランスからなのか、ロマン主義のイギリスからなのか、どこかから取ってきた「書を捨てよ、町へ出よう」なる、ほとんど退行的なフレーズが、ここ日本では、もてはやされることにもなった。この映画のジャコブという主人公の部屋は暗い室内に豪奢なベルベット調の家具が設置されているように見えるが、これは黒く塗りつぶされた壁紙に描かれたペイントで、リアルなものではない。この男の部屋にあるのは、この男の骨格のように哀れなパイプベッドと、盗んできてうず高く積まれた本の山だけである。この「ソフィスティケーテッドな領域 = 知 → 虚偽」という安易な発想は、決して1966年に『ペルソナ/仮面』を制作したベルイマンのものではない。

そういう無垢なる魂innocent mindとかいう発想で観れば楽しいのかもしれないが、ベルイマンの『ペルソナ/仮面』と比べると、小粒感をぬぐえない。過剰なエゴの発露、新しいものを作らねばならないという自意識の産物のようだ。まるで、この映画そのものが『ペルソナ/仮面』の分身であるかのように。同じことをデビッド・フィンチャーの『ファイトクラブ』にも感じた。虚しい人生に耐えがたさを感じるという凡庸なナルシシズムから、分裂、分身に至り、悲劇的な結果に至るのか、エゴの覚醒で分裂の危機を乗り越えるのかという、どう転んでも大仰なエゴの話しでしかないものを長々と聞かせられている気がする。ブラッド・ピットが同じことを2回繰り返す話し方をするのはそのまま『ペルソナ』のモチーフである。ベルイマンの『ペルソナ/仮面』は分身の領域を切り拓いた多元的な作品だが、ドストエフスキーを元手にしてそのベルイマンから一番わかりやすいところだけ取り出して、尺を引き伸ばしているかのようだ。

この点で、カサヴェテスの『オープニングナイト』や、キェシロフスキの『ふたりのヴェロニカ』、そしてデビッド・リンチの『マルホランドドライブ』というより『インランドエンパイア』は、分身という同じ土壌であるが独自の芽を咲かせていると私は思う。


何度かこの映画に出てくるベトナム戦争へのアンチメッセージは、『ペルソナ/仮面』の影響であるというより、時代のものなのだろう。しかし、便所で自殺しようとカミソリを持って、手首に吸いついてみたりするのは『ペルソナ』で描かれた吸血のモチーフだろう。また、まぶたに目が描かれているので、目を伏せると目が見開かれているような奇怪なメイクのセールスアシスタントの女などは、『ペルソナ』の冒頭のモンタージュで、死体安置所で電話の呼び鈴の音とともに目を開く死体たちから来ているのだろう。この生きている、かつ、死んでいる自我というモチーフは、このベルトルッチの映画においては、ランドリールームでの石鹸漬けのシュールな殺人という以上には展開されない。ベルイマンであれば、この女の顔面を死ぬ前は目を開かせておき、死んでからその目を閉じさせ、同時にまぶたの表面に描かれた目を開かせたことだろう。そしてそのシークエンスの間、たえず顔面の接写を続けたのではないだろうか。

勢いがよく、破茶滅茶な感じはよく出ている映画であったが、反知性的な素振りをしてみせて、お馴染みの結論しか提示しないのには、精一杯アートな感じで馬鹿やりました、という感想しか得られず。深夜番組のように、夜一人で観ていて特段何を得たというのでもないが、なんとなく面白いというのは、確かに感じたのだが。
カラン

カラン