天豆てんまめ

さよなら渓谷の天豆てんまめのレビュー・感想・評価

さよなら渓谷(2013年製作の映画)
3.1
真木よう子を観る映画であることは間違いない。

レイプ被害者という役柄の悲惨さと、その後の境遇の異様さに身をやつした彼女の痩せこけ、疲弊した姿そのものが、多くの観客が期待したであろう濃厚であるが見せ切らない濡れ場以上に、彼女の存在感と役者魂を感じさせる。真木よう子という女優の滲み出る生々しい色気は不幸もしくは退廃の中でこそ輝くのかもしれない。この作品で彼女は日本アカデミー賞含む、数々の女優賞にその年輝いたが、決して器用な女優だ思わない。別の(彼女に合ってない作品を観ると)あまりの演技の下手さに驚くことがある。滑舌も悪い。実に不器用だと思う。でも、全身全霊で身をなげうった芝居が役柄とバチっとはまると他の女優では出せない色気と怨念のようなものがスクリーンを凌駕する。そんな女優だと思う。

大西信満の役柄は徐々に明かされていくが、私には気持ち悪さが拭えなかった。レイプの加害者の彼が被害者の彼女のその後の人生の苦しみに、幾度も幾度も関わろうとして、その末、男と女の関係になる。そのプロセスの気持ちの80%以上は自分でも言い、彼女に「こんなことで楽になろうとしないでよ」と言われたように、贖罪というよりも「罪悪感から解放され楽になりたい」一点だと思えるが、更に、その早い段階で彼は彼女を抱く。私は残りの20%いや40%近くは彼の彼女に対する身をやつした者同志の行き場のない性愛、性的欲求だと思える。それが悪いとは言わないが。それが垣間見える彼の執拗な彼女への関わりに、彼の弱さと情けなさとずるさに嫌悪感をもった。この男、相当に、気持ち悪いわ。ということである。結果、彼女側の「この男を不幸のまま縛る」という意識が共犯化されるのだが、男がくたびれて人生を持ち崩そうが、彼女の証言で留置されようが、女の哀しみを贖罪意識で一心に背負うというよりも、一番楽な、自己放棄しきった男の逃げ道に過ぎない。だから、私には気持ち悪さが残るのだ。それを私は「ひとつの異質な愛のかたち」とは思えなかった。時間をかけて「愛の形になる可能性」ということを否定はしないけれども。ただ寡黙で何を考えているか分からないこの「自己放棄」男を大西信満はじとっと演じていて説得力がある。

随分、少女時代の面影が無くなった鈴木杏と
中年のだらしない半裸が印象に残る大森南朋と
あまりに最低な元夫の井浦新(ARATA)と
それ以上に最低な加害共犯者の新井浩文と
大森のさめざめとした妻を演じた鶴田真由。

皆、それぞれに、いい味を出している。

主人公も、そこに関わる男も、更に関わる他の人間たちも、幸せに見える人間は一人もいない。2時間見続けるには辛い彼女、彼らの業の変遷は、まるで大西信満のシャツにじとっと滲み出た汗が、いつまでもまとわりつくような嫌な粘質性の残るある意味、日本映画らしい日本映画である。

ちなみに10年前に買った写真集は「月刊 真木よう子」。一時は2万円近くの高値が付いていたのだけど、今は6000円くらい。何度か手放そうとしたが、妻に「もっと高値になるかもしれないから、家宝として持っておけば?」との言葉で、今も書斎に眠っている 笑