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愛のコリーダのSNのレビュー・感想・評価

愛のコリーダ(1976年製作の映画)
4.1
「エロチシズムとは、死に至るまでの生の称賛であるということもできる」とのバタイユの箴言は、そのまま大島渚の最も有名な作品の要約となる。

澁澤龍彦が広く知れ渡ることになった「悪徳の栄え事件」のように、内容の猥褻さ、過激さによって、正当な評価を得ることがなかった本作品(当然、それが大島の眼目であったのだが)。たしかに、ハードコアポルノの名に恥じぬ過激な演出の数々には、おもわず目を背けたくもなる。特に『椿三十郎』よろしく、中島葵の首元から吹き出す血飛沫や、有名なラストのブツ切断シーンの滑稽さは直視することを許さない。それでも、百鬼夜行ばかりを追求するB級映画が多く存在する中で、これがそれには属さぬ優れた恋愛物語であり、狂恋によってもたらされる悲劇としての格調をもつものであることに疑いの余地はないだろう。

大島はまず、大胆なまでに世界を狭く限定する。物語に関与する人物はおよそ三人。吉藏と定と吉藏の妻。三人の結びつける要素はただ性行為だけであり、他の登場人物はその行為のバリエーションを広げるためだけの付随物にすぎない。物語時間のほぼ全てが性行為か、あるいはそのための準備に費やされているので、どのシーンを切り取ってみても、男女は互いに結合をしているか、あるいは欲情した視線の交差によって常に交わっている。

空間は料亭の、それも唯一つの部屋を中心に進行する。外部との狭間には、障子という垣根があるものの、それは常に侵入を許すもの(冒頭部の定が初めて、吉藏と妻の行為を覗き見にするシーンに代表されるように)であり、またラスト近くのビビットな光彩の浸透が二人を照らし出すように、その部屋が料亭の一角ではなく、どこかユートピア的な空間であるかのような錯覚に観客を巻き込む装置に過ぎない。

二人の行為はおおよそ常に「夜」という、これまた演劇的な(逆を返せば常に二人にスポットライトが当てられている状態)要素によって、横たわる肉体の美は極限までに称揚され、その空間に充満する臭気や湿度までも肌身に感じられるようだ。

二人の行為は、純粋な欲望の追求であり、主従関係の段階的な逆転のプロセスでもある。その過程において、跳躍的な展開は厳しく留められているために行為は闇雲にただ反復されているように見えるが、その実、ジリジリと結末(つまりバタイユ的な結末)に向かって緊張感を保ったままに、物語が漸進していく様子がわかる。食欲と性欲の曖昧な境界、見られること(あるいは見る)による欲望の三角関係、マゾッホ的な(あるいはサド的な)被虐趣味、、。これらの行為の果てに、二人が見るものとは、おそらく純粋な「倦怠」ではなかろうか。とどまることを知らない欲動の発露に、行動の過激さは青天井を超えていく。行為の只中に、あるいはその背後に、死の足音が静かに響き渡っていく。冒頭の屈辱を受けた定が出刃庖丁(記憶が曖昧だが)を振り回すシーン、枕元で吉藏の首に小刀を押し当てるシーン、時折挿入される吉藏が剃刀を使って髭を剃るシーン(特に剃刀の描写における緊張感、生々しさには驚くほかない)、はそのままもっとも有名な結末のシーンを用意するものであり、ポルノグラフィック(欲情的)な凡作にはない「死」のイメージが点在している証でもある。

二人が身体を交わらせる度に、その熱い視線を交差させる度に、六畳一間の空間に堆積したあらゆる要素は過不足なく、吉藏を死へと至らしめる運動へと駆り立てる。交わる肉体以外の何物も撮ろうとはしない厳格なカメラは、反復によって衝撃を和らげ、反復によって観る快楽をもたらし、反復によって弛緩してしきってしまった観客の感受性に、衝撃的なラストを用意する。
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