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愛のコリーダの教授のレビュー・感想・評価

愛のコリーダ(1976年製作の映画)
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単純に、実際にセックスをしながら演技する。
セックスをしながらも、つまりは行為に没頭してはいけない。
それだけでも、映画の脱構築というか、ドキュメントを描いているようで、実はフィクションでしかないという虚と実が螺旋階段のようにグルグル回る。

愛のコリーダ(闘牛)なので要はセックスを通して男と女の殺し合い。
どっちがマタドールで、どっちが牛なんだろう。

僕は大島渚は、映画の虚構を解体する、ということで、「日本人」というものを解体する、とか、映画を言語にするために「政治言語化」しようと試みた作家だと思っているのだけど、初期作品においては比較的その脱構築や政治言語化は、実際のところ非エンタメ的で、上手くいってないと感じることが多かった。

そもそもが、エンターテイメントとして、という意識があまりないのかもしれないが、それ故に「映画」としての映像的なカタルシスも殺していた部分が多い気がする。
その欠落にセックスを描いていた気がするが、ストーリーも、映像的にも色っぽさが足りなかった。

本作における性描写については確かに過激かもしれないが、基本的にはアダルトビデオ的にも映る。
少なくとも、映画におけるセックスシーンの官能性というのは、直接的な描写には上手く宿りにくいものだとも思う。

やはり人物の魅力と、描くべき性の描写に物語的な必然をより強く感じさせないと成立しにくいと思う。
そういう意味で個人的に、官能を心から感じるセックスシーンというのはあまりない。

特に本作はセリフとしての猥語と行為の応酬で、卑俗な官能はあるかもしれないが、なかなかこちらの感覚に強く訴えるのは難しい。
特に変に生々しい会話にはエロスは乏しく、また、リアルに性描写を挟めばなおさら。
物語と映像のバランスは分裂している。

本作の後の「愛の亡霊」以降は非常に物語性を強調した作劇に切り替え、物語のドライヴ感がまさに巧みなエロスを表現していることを考えれば、大島渚も純粋に物語を語った方がいい、と思ったような気がする。
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