たかはし

言の葉の庭のたかはしのネタバレレビュー・内容・結末

言の葉の庭(2013年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

新海誠は『言の葉の庭』で、フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(1925年)を本歌取り(あるいは、換骨奪胎)したのかもしれない。いや、『言の葉の庭』は『ギャツビー』の本歌取りと見なせると言ったほうが正確だろう。

その『ギャツビー』との関連で、僕が『言の葉の庭』に問いたいことはひとつしかない。それは、水と死をめぐる問いである。

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『言の葉の庭』は、水によって、その物語が束ねられている。

雪野百香里(古典教師)と秋月孝雄(高校生)が会うためのただひとつの条件は雨である。孝雄は雨の日の朝は登校せず、新宿御苑の東屋へと向かう。そこに彼女がいる。東屋のすぐそばには池がある。── 雨、池。

彼女は別れるとき孝雄に、「鳴る神の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ」という万葉集にある詠み人知らずの歌を意味深長に投げかける。孝雄は彼女の問答歌に対する返歌を探し出す。それは「鳴る神の 少し響みて 降らずとも 我は留らむ 妹し留めば」というものである。── 鳴る神、雨も降らぬか、降らずとも。

彼女が涙を流しながら孝雄を抱擁するときには雨が降っている。何よりも、「雪野」という名前の「雪」は実際的に水分を含んでいる。── 涙、雨、雪。

秦基博が歌う主題歌の「Rain」の歌詞にはこうある。「雨の夜にきみをだきしめてた」、「きみは雨にけむる」、「どしゃぶりでもかまわないと/ずぶぬれでもかまわないと/しぶきあげるきみが消えてく」、「きみは雨にぬれて」、「きみの町じゃもう雨は小降りになる」、「きみは今もこうして/小さめの傘もささずに」。── Rain、雨の夜、雨にけむる、どしゃぶり、ずぶぬれ、しぶき、小降り、小さめの傘。

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雪野が新宿御苑で読む本のひとつは、夏目漱石『行人』(1912-13年)である。その『行人』で水が担う役割とは何だろうか。

他人との距離をうまく取れない疑い深い学者の長野一郎は、あろうことに妻の直が弟の二郎に思いを寄せているのではないかと、直の貞操を疑う。そこで、二郎に直と旅に出て一泊して来てくれろと頼む。二郎は兄の妻とたった二人で一泊せざるを得なくなる。その旅中、町を暴風雨が襲う。電話と電車が通じなくなる。そうして、帰路が断たれる。

雨つまり水が、実際的に、一郎と直を切り離す。暴風雨により旅先で足止めされたとき、直は二郎にこう告げる。

《「あら本当よ二郎さん。妾(わたし)死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌(きらい)よ。大水に攫(さら)われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」》(新潮文庫, 2011年, 195頁)

小説の最後で、一郎の友人Hは彼を旅に連れ出す。その旅中、Hは二郎宛てに手紙を送る。上の直の言葉を頼りにしながらHのその手紙を読むとき、次の文章はあまりに示唆的である(なお、文中にある「兄さん」とは一郎のことである)。

《翌日(あくるひ)も我々は同じ所に泊っていました。朝起き抜けに浜辺を歩いた時、兄さんは眠っている様な深い海を眺めて、「海もこう静かだと好いね」と喜びました。近頃の兄さんは何でも動かないものが懐かしいのだそうです。その意味で水よりも山が気に入るのでした。》(412頁)

「近頃の兄さん」という言葉は、ただちに「過去の兄さん」へと反転する。過去の一郎は山よりも水が気に入っていたのである。なぜ「近頃の」一郎が「水よりも山が気に入る」のかと言えば、その「水」が「大水に攫われ」て死にたいという「近頃の」直の言葉を思わせるからだろう。そう読むためには、ただし、Hが「水よりも山」と書いていることに引っかかる必要があるだろう。ここは「水よりも山」ではなくて「海よりも山」と書くほうが自然ではないのか、と。

ここで断らなければならないのは、一郎が実際にそう思っていると言いたいわけではないということだ。一郎は「大水に攫われ」て死にたいという直の言葉を知るはずがないのだから。そうではなくて、そういうふうに「読める」と言いたいのだ。『行人』という小説テクストはそう「読める」ように書かれていると言いたいのである。漱石が実際にそのような意図を込めて書いたかどうかは知らないし、漱石が「そんな意図はない」と言ったとしても関係がない。とにかくそう「読める」のだ。

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水が『言の葉の庭』の重要な要素であるのは間違いがない。『行人』の登場がその事実を補強する(新海誠がそのようは意図をもって『行人』を登場させたのかどうかは知らない)。そして、ここまでくれば、水に物語のほとんど全てが織り込まれている『グレート・ギャツビー』に言及してもさして突飛ではないだろう。

『ギャツビー』の主人公ジェイ・ギャツビーと彼のかつての恋人デイジー・ブキャナンが五年ぶりに再会するときには雨が降っている。ギャツビーが射殺され、その崩れ落ちる肉体を受け止めるのはプールに張られた水である。だから、ギャツビーの住むウエスト・エッグとデイジーの住むイースト・エッグを隔てるのは海という水なのである。愛し合う二人を隔てるものがビルであったり、山であったり、ドイツをかつて東西に隔てていたような壁であってはならない[注1]。── 雨、プールに張られた水、海という水。

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フランスの哲学者であるガストン・バシュラールが論じる物質的想像力。そこでは水が死を連れ立っているというのは、あるいは常識なのかもしれない[注2]。生と死の境であるとされる三途の川はその好例だろう。

水と死は同時に立ち現れる。『行人』では、直が「死ぬなら(中略)大水に攫われ」たいと言う。『ギャツビー』では、ギャツビーの死を水が受け止める。

もう一例あげよう。次の文章はカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(2005年)からの引用である。主人公のキャシー・Hが自身の使命が臓器提供にあると知るその直前の記述である。

《当時、わたしたちは一五歳。(中略)体育館で着替えなどの準備をしていました。(中略)着替えている最中にあいにく雨が降りはじめ、わたしたちはベランダで雨をながめながら、止むのを待つことにしました。》(ハヤカワepi文庫, 土屋政雄訳, 2008年, 124頁)

この直後にキャシーは自分の人生が臓器提供にあると宣告される。それはキャシーに絶望をもたらすだろう。そして、その絶望は死にほかならない。どういうことか。僕たちは「可能性」を頼りに生きている。しかし、あるとき、あらゆる可能性がなくなる瞬間が訪れる(たとえば、癌に侵され余命を宣告されたとき)。すると、絶望が生起する。これから何者にもなれる可能性がないのだという絶望。その絶望は〈死に至る病〉である。なぜなら、人間は「可能性」の中でのみ生きている存在で、「可能性」がなければ生きられないからである。デンマークの哲学者であるセーレン・キェルケゴールはそう考える[注3]。その「何者にもなれる可能性がないのだという絶望」=死をもたらす宣告の直前に上の文章が置かれている。それがイシグロの意図なのかどうかは知らない。唯一たしかなことは、雨つまり水と死とが重なり合いながら出現しているという事実である。

調子にのってもう一例だけあげよう。夏目漱石に、十編の掌編から成る幻想的な「夢十夜」(1908年)という作品がある。その「第三夜」からである。それは父子の物語である。やや長めに引用するが、雰囲気が伝わればと思う。

《雨は最先(さっき)から降っている。路はだんだん暗くなる。殆ど夢中である。只脊中に小さい小僧が食付いていて、その小僧が自分の過去、現在、未来を悉く照して、寸分の事実も洩らさない鏡の様に光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目(めくら)である。自分は堪らなくなった。
「此処だ、此処だ。丁度その杉の根の処だ」
 雨の中で小僧の声は判然聞えた。自分は覚えず留った。何時しか森の中へ這入っていた。一間ばかり先にある黒いものは慥かに小僧の云う通り杉の木と見えた。
「御父さん、その杉の根の処だったね」
「うん、そうだ」と思わず答えてしまった。
「文化五年辰年だろう」
 成程文化五年辰年らしく思われた。
「御前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」
 自分はこの言葉を聞くや否や、今から百年前文化五年の辰年のこんな闇の晩に、この杉の根で、一人の盲目を殺したと云う自覚が、忽然として頭の中に起った。おれは人殺であったんだなと始めて気が附いた途端に、脊中の子が急に石地蔵の様に重くなった。》(『文鳥・夢十夜』新潮文庫, 2002年, 39-40頁)

雨が降っているときに、語り手である「自分」は人を殺したことを思い出す。ここでも、雨つまり水と死とが同時に立ち現れているのが分かる。

ちなみに、『言の葉の庭』には吉兆でもあるが凶兆(それは、たとえば、死の兆し)でもあるカラスが幾羽も雨の中を飛び回る場面があったり、一羽のカラスが航空障害灯と思われる赤灯に照らされる場面がある。この角度からも『言の葉の庭』が死に囚われている作品であると言える[注4]。

だから、僕はこう問いたいと思うのだ。『言の葉の庭』の水(あるいは、カラス)は、誰の(あるいは、何の)死と共にあるのだろうか、と。

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東屋で雪野が孝雄に「私ね、うまく歩けなくなっちゃったの、いつの間にか」と言う。孝雄に告白されたときには「一人で歩けるようになる練習をしてたの、靴がなくても」という言葉を口にする。

この言葉は何を意味するのだろうか。たとえば、フロイトが創始した精神分析において、「靴」は「女性器」の象徴ということになっている。

《靴、スリッパは女子性器ですし、机と材木は、その理由は問題ですが、間違いなく女性の象徴であることはすでに述べたとおりです。》(『精神分析入門(上)』新潮文庫, 高橋義孝・下坂幸三訳, 2010年, 262頁)

だから、孝雄が自身の手を彼女の足に絡ませながら彼女の靴の寸法を測る場面はセクシャルな意味合いを持つことになる。

つまり、フロイトの理論を導入すると、『言の葉の庭』はたちどころにポルノ映画へと変化する。二人は「靴」を通して、見ている我々でさえそれとは気がつかないほど密やかに、フォアプレイを済ませているのだという具合に。

彼女の手作り弁当のおかずを盗み食いしたとき、孝雄はむせる。彼女はペットボトルのお茶を渡す。孝雄はゴクリと一口飲む。そうして、それを彼女に返す。この場面を無理くりセクシュアルな解釈に組み込めば、間接キスを思わせるその場面は靴の寸法を測る前に置かれているから、それはフォアプレイのためのフォアプレイ、フォアプレイへと至る通過儀礼だと言えるだろう。それは、孝雄がそのとき食べるおかずが卵焼きであることで決定的になる。フロイトの自由連想法にならえば、卵焼きは「卵焼き→卵→卵子→子宮→女性器」という連想を誘うであろうからである。

思えば、彼女が孝雄に靴の本をプレゼントするが、それはお茶の後、足の寸法を測る前のことである。だから、靴の本のプレゼントが意味するのは、靴=女性器と考えれば、彼女が孝雄に自身の性器を捧げるということであろう。ペットボトル(間接キス)→プレゼント(性器献身)→寸法測定(フォアプレイ)。

このような文脈において、彼女の言う「一人で歩ける」という言葉は、「靴がなくても」(=「女性器がなくても」)という言葉と突き合わせて考えれば、「男性なしで生きていける」という意味になるだろう[注5]。

ということは、「一人で歩けるようになる練習をしてたの、靴がなくても」は「性的な関係に重きを置かずに生きていける練習」と解釈できる。「私ね、うまく歩けなくなっちゃったの、いつの間にか」は、だから、彼女がセックス依存症のようなものであることを示していることになるだろう。

映画において、人が物を口にするその場面に性欲を読み取れる[注6]ことを考えると、東屋で孝雄を前にしながらビールとチョコレートを手にする彼女は、無意識的に孝雄を性欲のはけ口として選んでいるかのようである。そのことからも彼女の中にあるセクシュアルな香りを嗅ぎ出せる。

以上、『言の葉の庭』がポルノ映画たるゆえんを書き連ねたが、『言の葉の庭』における「靴」の象徴に関してはすでに指摘がなされていること[注7]、それをもとにした上述の僕の解釈は世間的には「トンデモ解釈」に属するであろうこと、それは何より水と死の関係性を何も詳らかにしてくれそうにないこと、この三点を理由にして別の解釈の可能性を考えてみる必要がある。

だから、僕は僕自身に問い直さなければならない。「私ね、うまく歩けなくなっちゃったの、いつの間にか」と「一人で歩けるようになる練習をしてたの、靴がなくても」の意味とは何か、と。

「靴」を履かずに歩き続ければ、徐々に足が傷ついていく。「一人で歩ける」とは、だから、「傷つくことを恐れずに生きていける」というほどの意味なのだろう。「一人で歩けるようになる練習」とは「傷つくことを恐れずに生きていけるようになるための練習」にちがいない。なぜ「うまく歩けなくなっちゃった」かと言えば、傷つくことを恐れるあまりゆえだろう。

傷つくことに対する彼女の恐れは、たとえば、彼女の家のベランダにある小さいダンボールのような箱の側面に書かれている「FRAGILE(壊れ物注意)」という言葉から読み取れるかもしれない。

電子辞書で “fragile” を引くと、「壊れ[割れ]やすい,もろい;《略式》(人・体質が)虚弱な(⇔tough)」(『ジーニアス英和大辞典』)とある。

深読みをすれば、「FRAGILE」というその文字は、彼女の精神状態を表しているのではないだろうか[注8]。だとすれば、彼女は今の自分の精神が「FRAGILE」だと自覚しているからこそ、傷つくことを恐れているのだろうと考えられる。

彼女は「二七歳の私は十五歳の頃の私より少しも賢くない。私ばっかり、ずっと、同じ場所にいる」と考えるが、彼女が「二七歳」の自分を「十五歳」の自分と比較するとき、そこには「社会人としての成長」だけではなく「精神的な成長」もその比較の対象に含まれているにちがいない。

映画のクライマックスで、彼女が家を飛び出して孝雄を追いかける場面。そのとき、彼女は裸足で外に飛び出す。靴を履くことはしない。それは「傷つくことを恐れずに生きていく」という彼女の決意表明であろう。

となると、『言の葉の庭』の水(あるいは、カラス)は、どうやら「過去の彼女」の死と共にあるようだ。彼女は、傷つくことを恐れる自分と手を切ろうと試みる。それが成し遂げられれば、傷つくことを恐れる彼女は過去の彼女となり、その瞬間にその過去の彼女のもとに死が訪れる[注9]。

「Rain」の歌詞にこうある──「変わらずいる心のすみだけで傷つくような/きみならもういらない」。

彼女ならこの歌詞に孝雄の声を重ね合わせるにちがいない。なぜなら、傷つくことを恐れる彼女を突き動かすのは孝雄だからである。彼女は、マンションの階段の踊り場で対面したときに孝雄から受け取る言葉の裏側に、「傷つくような/きみならもういらない」という意味を読み込まざるを得なかったのではないだろうか。

踊り場で孝雄はこう言う──「雪野さん、さっきのは忘れてください。俺、やっぱりあなたのこと、嫌いです」。そうして、彼女は孝雄から辛辣な言葉を投げかけられる。

となると、「傷つくことを恐れずに生きていく」と決心した直後の、靴を履いていない彼女を傷つけるのは、孝雄が初めての人物ということになる。

だからこそ、それまで孝雄の前で自身の弱さを見せることをしなかった彼女[注10]が、泣き叫びながら踊り場で彼を太陽と共に抱きしめつつ(彼に太陽と共に抱きしめられつつ)、「毎朝、毎朝ちゃんとスーツを着て学校に行こうとしてたの。でも恐くって。どうしても行けなくて。あの場所で私、あなたに救われてたの」と告白することには大きな意味がある。

その告白は、彼女が孝雄にした初めての告白である。彼女が孝雄に心の中を初めてさらけだす瞬間。

一方の孝雄は二度、彼女に告白している。ひとつは「雪野さん、俺、雪野さんが好きなんだと思う」という告白。もうひとつは、出会ったばかりのころ、靴職人になりたいという将来の夢の告白。それが孝雄にとって告白であることは、「できることならそれを仕事にしたい。そう誰かに言ったのは初めて」という孝雄のナレーションが教えてくれる。

孝雄の告白と、彼女の告白。その二つが揃ったとき(彼女が胸の内を明かしたとき)、生徒と教師という関係を超越して二人は初めて対等の存在となる。対等になるとき、彼女は傷つくことを受け入れられる。なぜなら、教師の立場でいる限り、彼女は孝雄の言葉を拒絶できてしまうからである。高校生のただの戯言だ、と。ところが、二人は対等になる。彼女は傷を負う自分と生きていくことを覚悟する。

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雪野はギャツビーと似ている。彼女は傷つくことを恐れる過去の自分を葬り去る。彼がジェイ・ギャツビーとなるためにジェームズ・ギャッツという名前を捨てて過去の自分を葬り去るように。そして、なにより、どちらも水をめぐる作品である。『言の葉の庭』は、だから、『グレート・ギャツビー』の本歌取りと見なせると思ったのだ。

そして、ここで、『ギャツビー』の翻訳者でもある村上春樹の『ノルウェイの森』(1987年)がまず『雨の中の庭』というタイトルで書き始められ、その主人公であるワタナベトオルの愛読書が『ギャツビー』であるということを、あるいは思い出していいかもしれない。



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《今の私は馬鹿で人に騙されるか、或は疑い深くて人を容れる事が出来ないか、この両方だけしかない様な気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。》(夏目漱石『硝子戸の中』新潮文庫, 2011年, 102頁)

孝雄と出会う前の雪野は、傷つくことを恐れてばかりいた。しかし、彼女が靴を履かずに家を飛び出したとき、傷つくことを恐れる彼女は過去のものとなった。

辞書で “fragile” を調べたとき、「はかない,つかの間の」(『ジーニアス英和大辞典』)という意味も出てきた。最後、彼女はいま勤めている学校を辞め、孝雄と離れた。孝雄と共に過ごした時間は、ほんの数ヶ月のことにすぎない。しかし、彼女が過去を顧みるとき、それが人生のほんの一瞬の間の出来事、つかの間のことにすぎないものとして[注11]、だけれど、たしかに幸福な記憶として、思い出されるにちがいない。

そして、未来の彼女がたとえ「不安で、不透明で、不愉快に充ち」た生活を送るのだとしても、それをもってして、「人間とはどんなに不幸なものだろう」とは、彼女が孝雄との時間を幸福なものとして記憶しつづける限り、漱石であっても言うことはできないのである。誰もがみな、過去の自分の延長線上に存在しているからである。(おわり[注12])



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[注1]『ギャツビー』における水の役割については、小野俊太郎『【1冊で完全攻略!】『ギャツビー』がグレートな理由(わけ)── 映画と小説の完全ガイド』(彩流社, 2013年, 31頁)が教えてくれました。
[注2]ただし、オーストリアの精神科医ジークムント・フロイトが「出産は、夢では決って水に関係があるものによって表現されます。水中に落ちるとか、水からはい上がるのは、生むまたは生まれるという意味です」(『精神分析入門(上)』新潮文庫, 高橋義孝・下坂幸三訳, 2010年, 266頁)と書いているように、水には死と生という両義があり、死と生は対立するものではなく共存するものかもしれません(「破壊(死)とは創造(生)である」みたいな言葉は割と真実なのかもしれない)。でも今回は、「なぜ『言の葉の庭』の水に生を見出そうとする努力を怠るのか」と、自分で自分の感想を批判するだけに留めておきます。
[注3]キェルケゴールの哲学については、竹田青嗣「反=ヘーゲルの哲学」(『現代思想の冒険』ちくま学芸文庫, 1992年, 141-66頁)が教えてくれました。
[注4]カラスの象徴性については、桝田隆宏「英米文学鳥類考:カラスについて」(『高知大学学術研究報告 人文科学』第45巻 (1996): 71-81, https://kochi.repo.nii.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=4380&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1&page_id=13&block_id=21)が教えてくれました。ちなみに、柳田は「カラスはフクロウと同様に『不吉な鳥』」(71頁)と書いていますが、『ギャツビー』には「フクロウ眼鏡の男」という人物が出てきます。その意味で『ギャツビー』も死に囚われている作品であると言えます。
[注5]彼女が電話で「別れたあとにまで面倒かけてごめんね」と伊藤先生(男性)に言っていることから彼女はヘテロセクシュアルなのが分かりました。もちろん、バイセクシュアルの可能性もあるのですが、彼女からその様子を読み取ることはできなかったので「男性なしで」としました。
[注6]映画における食欲と性欲の関係については、関沢英彦「映画に描かれた『料理』と『食事』の4類型:一皿のコミュニケーションを巡って」(『コミュニケーション科学』第39号 (2014): 51-80, http://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/6514/1/komyu39-05.pdf)が教えてくれました。
[注7]『言の葉の庭』における象徴としての靴については、クマネズミさんの「言の葉の庭」(『映画的・絵画的・音楽的』アクセス日2018/11/20, https://blog.goo.ne.jp/barriosmangre/e/fb3f60233ea7dc7f29467ee69d184636)という記事で指摘されています。
[注8]「FRAGILE」はもちろん、雪野と伊藤先生が電話で話しているときに被せられる、「この人はいかにも優しそうに話す。まるで壊れ物に触れるみたいに」という彼女のナレーションを受けてのものとも考えられます。でも、その電話の場面で「FRAGILE」の文字はいっさい映り込んでいないため、ならば別の解釈を、と思った次第です。それから、孝雄が彼女に思いを告白したあとに「FRAGILE」が映ることから、孝雄の告白が “fragile” であり、叶わないものであることを印象付けようとしているようにも思います。でも、僕は多くの人が認めてくれるであろうそのような妥当な解釈を放棄しました。その代わりとして、別の解釈の可能性を探った結果、こんな解釈にたどり着きました。
[注9]生について、でもやっぱり少しだけ。『言の葉の庭』の水における生は、たとえば、「傷つくことを恐れる彼女は過去の彼女となり、その瞬間にその過去の彼女のもとに死が訪れる」=「傷つくことを恐れる彼女は過去の彼女となり、その瞬間に新たな彼女が誕生する」と考えることで見えてくるのかなと思います。
[注10]雪野が孝雄の前では強気でいることについては、「『言の葉の庭』が最高な理由がいまいち世間に伝わってないから解説していく」(『暇なんでblog』アクセス日2019/1/4, http://himanande.blog.jp/archives/65790735.html#comments)という記事が気づかせてくれました。
[注11]「FRAGILE」という文字が映るのは、雪野がひとりで家にいるときではなくて、彼女が孝雄と共にいるときだけでした。だからと言って、すこし映っただけの「FRAGILE」という文字に「彼女が孝雄と共に過ごした時間は刹那だった」という意味をも読み込むのは深読みすぎるでしょうか。
[注12]以上ですが、まあ多分ここに書き連ねたことは誤見だと思います笑(たとえば僕が孝雄ではなく雪野を主人公と見なしているところを誤見であると思う方もいらっしゃるのではないかと想像する)。それでも、近代日本文学研究者である石原千秋が「芸術において、『誤読』はいつも新しい読みの可能性を開く」(『Jポップの作詞術』生活人新書, 2005年, 37頁)と書き、さらに「それが『誤読』だとしても、『誤読』という新しい解釈の可能性は、芸術には必要なものなのだ」(同上, 39頁)とまで書いているように、僕も誤見(あるいは、誤読)が時には新たな解釈の可能性を生み出すだろうと思っているので、正直なところ、いろいろと書けて楽しかったです(小説版は読めていないので、映像を通して知り得たことのみを解釈の対象にしました点をご了承ください)。もちろん、法文や説明書の類を自由に解釈して良いと言いたいわけではありません。そうではなくて、映画や小説の解釈にまで「正しさ」を持ち込まないで欲しいと思っていたりするのでした。それは、「正しさ」が作品をつまらなくしてしまうことがあると思うからです。とにもかくにも、『言の葉の庭』という大好きな作品を自分なりの物語に再構築していく作業は勉強になり、また、とても面白いものでした。それは、『言の葉の庭』には意味が過剰に溢れているために、それが「観る」対象のみならず「読む」対象としても優れていたおかげだと思います。しかし、それゆえに、解釈の余地はまだあまりに残されていると思います。今回の感想は雪野を主人公として書いたので、孝雄を主人公とした場合には(彼はなぜ彼女に惹かれるのか、彼と彼の家族はどんな関係性なのか、彼にとって父親の不在はどんな意味をもつのか‥‥などといったたことを有機的につなげて考えた場合には)、全く別の物語が始動することになるのだろうと思います。また、『行人』と水との関係は考えましたが、『行人』と彼女との関係はまだ考えていないので、この点においてだけでさえ考えるべきことはまだあるように思います(たとえば、『行人』を書いているとき漱石が身体的にも精神的にも弱っていたこと、『行人』には精神的に参ってしまって死んでしまう女性が出てくること、そのようなことを彼女の精神状態と重ねて考えると新たな解釈が出てきそうです)。ほかにも、孝雄の「何よりも俺は、あの人がたくさん歩きたくなるような靴を作ろうとそう決めた」という言葉と、彼女の「一人で歩けるようになる練習をしてたの、靴がなくても」という言葉のすれ違いがもつ意味は考えねばならないと思います。さらには、『君の名は。』に彼女が登場することから、その未来の彼女から『言の葉の庭』における彼女を考察することもできるわけですが、僕の感想は未来の彼女をカッコに入れて考えたものであるため、ここにも解釈の余地はたくさん残されているように思います。加えて、映画的な技法とか、アニメーション的な技法とか、挿入される音楽とか、舞台となった場所とか、ファッションとか、そういったものに関する考察も行えば、それこそ無限と思えるくらいの解釈が出てきそうです(ですが、そういった知識が皆無な僕にはできそうにない解釈です‥‥。誰か頼んだぞ!!)。というわけで、僕は『言の葉の庭』の半分も考えられていないのかもしれませんが(そう考えるとぞっとしたり)、新たな解釈はその作品を死なせないためにも必要だと思うので(たとえば、漱石文学が今日まで残っているのはそこに解釈の多様性を許す土壌があったりするからだと思います)、その意味で『言の葉の庭』が死ぬことはほとんど考えられない事態ではないだろうかと思います(『言の葉の庭』は死と結びつく水に満ちているけれど、この場合は死ではなくて生を呼び起こすものとしての水だろうと思います)。そんなこんなで、『言の葉の庭』は、映画とは観てもいいし読んでもいいものだと教えてくれているように思います(もちろん、映画は「読む」ものではないのかもしれませんが、僕は大学で文学しか学ばず映画の勉強をしたことがないので、ここに告白すれば、「読む」ようにしか、つまり言葉と戯れることによってしか、映画を観られないという事情があります。今さらですが、その点、ご容赦願います)。ところで、『行人』に、「あなた方は兄さんが傍(はた)のものを不愉快にすると云って、気の毒な兄さんに多少非難の意味を持たせている様ですが、自分が幸福でないものに、他(ひと)を幸福にする力がある筈がありません。雲で包まれている太陽に、何故暖かい光を与えないかと逼(せま)るのは、逼る方が無理でしょう」(464頁)という一節がある。雪野の落涙は太陽と共にあった。雲の合間から陽が射すのと同時であった。その陽が彼女の顔を照らし出した。彼女みたいに、せめて泣くときくらい太陽のほうを向いていられたら、と思う。涙はどうせ下へと落ちてゆくのだ。さて、今度、漱石山房記念館に行くので、その帰りにでも新宿御苑を訪れよう。それは雨の日がいい。