1960年後半、フランスの五月革命前夜を舞台にした、双子の姉弟とアメリカ人留学生との一時的な逃避行を描いた作品。
まさに映画からはじまるんだけど、当時の映像や映画を挟みながら進められる画面は前半から楽しい。
アメリカ人留学生のマシューはシネマテークでシネフィルの世界に入り、勉強ではなく人生を学んでいるという。ラングロワのシネマテーク時代、そこで出会った美しい男女のテオとイザベラ。
出会ったときから彼らと意気投合したマシューは彼らの”仲間”として認められる。
次第にマシューは彼ら2人の危ない関係やゲームに入り込み、いつの間にか3人は現実とは異なる自分たちの世界を構築していく。
観終わったとき、ベルトリッチが描こうとしたのは何だろうと気になって色々探してみたけど、まだなんとなくふわっと漂っていて。
ただ映画に対する先人たちへの敬意はこの3人の会話を通して立ち現れているんだよなぁ。
シネフィル的感覚が描かれていることも面白くて、古今東西あらゆる作品をシネマテークで浴びるように観る中で、真の映画狂は最前列で観るのだと。それは映画の画面が進むごとに、光のスピードが最前列から後列に伝達されるからで、より新鮮な光を浴びるために最前列にいるという。
そして同じ感覚を持つ者同士は仲間であり、コミュニティを形成できるということでもある。
おそらく、イザベラとテオにとって、わかりあえる者とわかりあえない者との境界線は明確になっていて、両親はそこから最初に弾かれた存在で革命に発展する運動だってもしかしたら結局は弾かれていたのかもしれない。自分たちの平穏を、バランスを保つために築いてきたその2人の世界は、わかりあえる者として現れたマシューの登場によってバランスを崩してゆく。
それはマシューが内側から彼らの世界を揺さぶってしまうから。
マシューもシネフィルとして、そして知識を持つ学生として、特にテオと様々な議論をする場面が描かれる。彼らは強固に自分の意見を持ち、マシューもテオも、イザベラも外から見れば別々の個体であるように思える。
でもイザベラとテオの関係は一心同体のような絆で結ばれていて、マシューでもそこは崩せなかったことになる。そして2人は革命の始まりとして火炎瓶を投げつけ、そこで物語は終わる。
五月革命は後にド・ゴールに鎮圧されるから、彼らの行動が成功しないことは明らかだけど、それでもカットごとに意味を求めたくなる作品だと思ってしまう。
セックスとサスペンス、そして映画への愛。
それは全て閉鎖的空間だからこそ起こるものなのかもしれない。タイトルにもある”ドリーマーズ”はそういった閉鎖的な感覚を共有した者たちのことを指すのかも。
ベルトリッチは『ラスト・タンゴ〜』問題もあって、作者と作品に対する関係性を考えさせられるけど、だからといって作品全てを否定することも違う気がして。
『ドリーマーズ』の冒頭からゲームになるまでの雰囲気が好きだったな。ガルボ、ディートリッヒまで物語に組み込まれて。
衣装も60年代のロンドンの雰囲気とパリの雰囲気が混ざり合っていて良かった。マシューは茶系のセットアップだったり、テオは黒に近いセットアップ、イザベラは赤のベレー帽に緑のベロアワンピ。
アメリカではないなと思わせるファッションや世界観が画面の質感として残っていて、中盤から始まる危うい3人のランデブーにキリキリさせられた。笑