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少女娼婦 けものみちのshishiraizouのレビュー・感想・評価

少女娼婦 けものみち(1980年製作の映画)
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何度も流れてくる、登場人物もくちずさむ「カラス」という歌〈泣け泣けカラス、おいらの代わりに泣いてくれ、飛べ飛べカラス、おいらのぶんまで飛んでくれ…〉

しかし鳴くのは、飛ぶのはカモメで、カモメは自分の代わりに泣いては/飛んではくれない。少女のとまどい、性の高まりに反応するように、カモメの声がミャアミャアと小さく、大きく響くだけ。自分の人生の傷を替わってくれる者はない。性にからめとられた少女はまぶしい未来に跳ぶことなく、毛羽立った畳の所帯染みた生活へ収縮していっても、自分の生理で引き受けるしかないのだ。

真っ暗なトンネルから光がさす外へ、自転車でひらけた海へ。「どこまでいくの?」カモメの鳴き声が大音量で響き、若者との傷つけるような性交のあと、少女は海の音に耳をあて、泥水に仰向けになり、「(愛しあうって)こんなことなの、繋がってなんかいないよ」と呟く。
確かな繋がりとしてかつてあった筈の父との縁は切れており、その父の影をみるようにして男に抱かれるサキ(吉村彩子、新人、当時大学2年生、映画では17歳)。若い不器用な男と、手練れの大人の男と双方とまぐわい、揺蕩い、少女が女になってゆく定石だが、そこに母が
加わるのみで物語素が足りずに子供を産む生活に着地する予感まで素っ気なくすすむ。軸となる父親の話は観念にとどまり、男たちに弱々しさ、影の薄さを寄与してしまう。
しかし、性にだらしないトラック運転手としてあらわれた内田裕也が、乾燥し脱力した小さな声でサキを静かに受け止める。だらしなさからくる未来の破局を予感させておきながら、その意外な弱い優しさで、少女を包み込むのだ。

性交シーンでは、彼女(立ち姿の、まっすぐで清潔な裸身)がはしゃいでいるか、痛みや快感に苦悶の表情を浮かべているかに焦点がゆき、男の印象は、弱く薄い。
それよりも、冒頭で陶器の人形を身体に這わせてする自慰行為、終盤に手鏡で自分の顔を見つめながらひとり為すそれが、より印象鮮やかだ。相米『お引越し』で自分を自分で抱きしめたとき、少女が女になったように。

男がかわると屋台を変えて生活を
一新する母親の作法に倣い、ラスト、屋台を引くサキの画ひとつで状況を示す。わが身に引き受けた生活がはじまっていた。自分でわが身を引き受けながら、おそらく男と暮らしてもいる、どこか収まりの悪い、でも、そういうもんでしょ、とも言える結末。
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