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フリークス(怪物團/神の子ら)のmazdaのレビュー・感想・評価

3.8
見た目が違うという理由で笑われ者にされフリークと呼ばれる人間たち。

そもそも"普通"って自分基準でしかないし、ほとんど多数決で判断されているものだと思う。
日本人の子達の中に黒人の子がいると、無意識に"黒人の子がいる"とその中にいる唯一という特別な印象をどうしてももってしまうけど、逆に黒人の子達の中に一人だけ日本人がいたとしたら、そこでは日本人が特別な印象をうける。新橋とかの地味な黒スーツのサラリーマンの中にぱみゅぱみゅみたいな原宿女子とかがいたらそれは間違いなく、この空間には珍しい人がいるという目で見られると思うけど、原宿の派手子たちが集まる中に地味な黒スーツがいたとしたらその地味さがその空間ではとても目立つだろう。
笑い者にする下品な人間たちの中にいる、見た目が少し違う彼等に対してやっぱりどうしても少数派の印象をもってしまうのだが、逆に楽しい笑いに溢れるフリークスの中に下品な笑いしかできない健常者達が混じるとそれこそ怪物がいるようなオーラで悪目立ちしているのだ。だから結局普通とか普通じゃないってそういうことかなって思う。

自分とは違う者に対して特別な目線をまったくもつなと言われると正直無理だと思う。自分がもたない能力をもっていたり、自分のできないことや知らない世界があれば驚きをもつことは無意識に近いし、違いをどこかでわかっていながら見て見ぬふりして特別視しないという意識した目線の方がある意味差別になってしまう。
今まで男女関係として付き合っていたはずの彼氏がある日からトランスジェンダーとして生きていく『私はロランス』でもやはり、彼のことを愛するきもちは変わらなくても変化をもった彼を愛するために、その変化を受け入れ自分との違いと世間の厳しさを理解し飲み込む必要が彼女にはあったはず。優先席で年配の方に席を譲るにも『優先すべき相手』という人を区別する認識がそこにはあるはず。だから差別することと違いを受け入れることというのはイコールにはならないと思う。
人なんて違って当たり前で健常者だとしても性格だったりその人の癖だったり普通とは違うおかしなところがあったりするもの、それってたぶん誰もがもってるもの。私と他の人は違うし、他の人と他の人も違う。
フリークと呼ばれる彼等もみんな一緒なわけじゃない。小人症のカップルハンスとフリーダは体型も人種も同じ愛し合う2人だけど結局価値観は違った。体がくっついた結合双生児の女の子たちだって感じ方までも一緒なのに愛した人は違った。
見た目や中身に違いがあっても同じ人間、同じ人間だけどみんな違う、違うことこそ"普通のこと"だと思う。そのことに気づけない作中の健常者の方がどちらかというと見ていて苦しかった。

『エレファントマン』と似ているなあと思っていたけどあの映画よりもずっと残酷だと思ったし辛かった。差別されることが辛いというより馬鹿にされた彼等がそこで反撃してしまうことが苦しかった。手出ししないことが正しい行いというわけではないけども、やり返してしまったら差別する醜い彼等と同じような気がしてしまって、もっと他にやり方があったような気がした。優しさが勝つのはエレファントマンで、怒りが勝つのがフリークスかなって思う。でもどちらもその感情はすごく人らしさだと思った。

今でこそいろんな人々が映画にでたり自分のやり方で何かを表現したりするのが普通になっているけど、30年代の当時にこのような映画ができたのはとても斬新に思われたんじゃないかと思う。どんなきもちで彼等が演じていたのかが気になる。
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