当たり前だけど、全ての人にはその人の生活があり、価値観がある。
この映画は「悪のテロリストと超人的なヒーローが闘う」という話ではないので、ジャックバウアーみたいな人は出てこない。爆弾テロが、どういう人たちに、どれほどの影響を及ぼしたのかを描いている。
悲惨な描写だけではなく、捜査部分はスタイリッシュに、アクションは派手に撮影され、「みんな観た方がいいよ」と人に勧めやすい内容になっている。
多様性によって、危ういバランスの上で成り立っているアメリカの苦悩も表現されており、誰もがテロに脅えずに暮らせる社会をつくりたいと願う人には、ある種の救済のような効用を持つ映画になっている。
日本でも、地下鉄サリン事件や新幹線内での虐殺ほどの大事件でなければ、車で歩道に突っこむ、刃物を振り回すなどの無差別攻撃は定期的に起こっている。
今年、地元にけっこう近いところで、無差別めった刺し事件があってから、自分の大切な人がそういう被害に遭わずに済む方法を、ちょこちょこ考えてきた。
加害者が求めてるものって何だ?
「自分の存在、自分の言い分を認めてほしい」
やっぱりこれ?
もしそうなら、この映画の最終的なメッセージが、ボストンの勝利を宣言する、警官や捜査官に捧げる、という結びになっていたのが個人的には残念だった。
警官は絆創膏や抑止力なので、警官が活躍しても、社会全体に根ざした民族的な脅威は消えない。
誰もがテロを心配せずに暮らせる社会をつくりたいなら、より多くの人がまあまあ、そこそこ納得できるような「受容」を日常的に感じられる社会を目指す必要がある。
アメリカにおけるイスラム、アジアの人たちが受容を感じられるような結びになっていれば、こりゃ素晴らしい映画だ、と思えたが「ボストンよ、強くあれ」の輪の中に、イスラムの人は自然に溶け込めないだろう。あの結論では、テロがなくならないわけだ。
最近ハフポストから発信された「日本で暮らすハーフに、大坂なおみ選手がくれたもの」という動画を見ていると、こういう影響こそが民族的な脅威を減らすのであって、排他的制圧活動はテロ対策になっていないと思ってしまう。
こういう映画は白人が元気を出すための娯楽だからいーんだよ、と言われたらそれまでだけど、排他的武力制圧→勝利宣言を繰り返している限り、おそらくまた誰かが爆破されることになる。
その時そこにいるのが、たまたま自分の子供かもしれない。この映画を観て、最も強く感じたのはそこだ。新幹線くらい、安心して乗っていられる国で子育てしたい。でも今は、その程度の治安が疑わしくなってきている。
「むしゃくしゃしたから、そこにいた誰かをめった刺しにした」というのなら、「むしゃくしゃしたから、ゴミ箱を蹴っ飛ばした」で済ませられる程度の社会にしておきたい。無差別攻撃の抑止を実現するには、排他的制圧ではなく、受容が鍵だと思う。
つい考えこんでしまう映画でした。