猫炒飯

ハンナ・アーレントの猫炒飯のレビュー・感想・評価

ハンナ・アーレント(2012年製作の映画)
3.9
勉強不足の人間の戯言です。

アドルフ・アイヒマンの蛮行後の責任感のない、あくまで事務遂行をしたまでだと言わんばかりの姿勢は単なる思考停止の結果であると捉えることもできる。

たが、個人的にはマックス・ヴェーバーが喝破した官僚制のもたらす弊害をそのまんま絵に描いたような事例でもあると考えている。

決してアイヒマンが思考できないアホなのではない。彼は官僚としてはむしろ優秀な部類なのではないかと思う。

官僚制自体が人間らしく思考することを放棄させるような性質を帯びている。なぜなら、権威に服従する姿勢が当たり前として組織に浸透しているが故に円滑に運営されるシステムこそが官僚制だからである。上の言うことに半ば無思考に「ハイ!」と言えることが求められるのであろう。ヴェーバーは近代的官僚制を、中立的に適用される規則や明確化された職務権限、さらに階層性の組織構造という形式合理性の概念によって特徴づける。部下の立場から、自らよりも広範な職務権限を持つ上位階層の人々の意向に異を唱え、捻じ曲げるのは極めて困難である。何を言っても無力だと言うアイヒマンの意見は、同じく平凡である自分には分かるところもある。当時ユダヤ人の救済行為は処罰されることもあったため、下手したら家族もろとも殺されかねない。だから、敢えて思考停止を選ぶ、いや選ばざるを得ないということもあるのかもしれない。

当然、だからといってアイヒマンの為したことは許されるべきことではあり得ない。絞首刑に処されるのも仕方なし。

ただ、上述のこともあり、もしもアイヒマンの立ち場に置かれたなら、誰もが同じような結末を迎えていた恐れすらある。アイヒマンはシステムに流されてしまった平凡な一人なのである。そのため、「悪の凡庸さ」というハンナ・アーレントの指摘は流石に鋭い。

官僚制に問題点はあるにせよ、それ無くしては近代の複雑なシステムは営めない。官僚制は監視機構を入れ込んだり拮抗勢力を設けるなど工夫をしながら運用しなければ腐敗あるのみなのだと改めて考えた。

おそらく、ハンナ・アーレントの指摘する全体主義は、一般的な全体主義の定義とはまた別の、官僚制を含むより大きなシステムを指しているのであろう。彼女は、その大きなシステムの中で、アイヒマンもがんじがらめになったと見ていたのだと推察する。アイヒマンのみならず、一部のユダヤ人もユダヤ人虐殺に加担せざるを得ないほど、この全体主義の力は強かったのであろう。ユダヤ人のユダヤ人虐殺への加担を指摘したハンナ・アーレントは、厳しい非難を浴びることになった。

自分は、これ機にようやく『全体主義の起源』を読み始めた。

本作では、システムの歯車として身を委ねるのではなく、絶えず思考する大切さを説いている。とは言え、思考の末に権威に対して異を唱えたり、独自の見解を提唱したりするのも一筋縄ではいかない。ハンナ・アーレントも非難轟々の嵐に晒されたように、荒波をくぐらなければならない可能性は高く、相応の覚悟が必要になるのだろう。彼女が批判にもめげずに哲学することを貫いた姿勢はさすが哲学者、カッコいいと感じた。この姿勢は見習いたい。が、凡庸な自分には極めて難しいのだ。。
猫炒飯

猫炒飯