Masato

ハンナ・アーレントのMasatoのレビュー・感想・評価

ハンナ・アーレント(2012年製作の映画)
4.2

ハンナアーレントの自伝

レポートの題材の為に見たが、思わず感涙した。全体的にスローテンポではあるが、終盤の講堂でのシーンで一気に持ってかれた。最後だけは5点満点。人間が人間たらしめる上で必要なことを教えてくれる。全人類が見て欲しい。

非常に興味深く、自然と涙が溢れる素晴らしい作品だった。終盤の部分にこの映画のメッセージ性が多く含まれている。私は、どこかでアイヒマンは平凡な人であるという話を聞いたことがあったが、ハンナ・アーレントがそれを最初に主張した人だということを本作で初めて知った。

「コンプライアンス 服従の心理」という映画がある。それは、ある男が警官を装ってとある店に電話をし、そこにいた女性店員の服を他の店員に指示して身体検査させるという、実際に起きたイタズラ事件の映画化である。それと、アイヒマンの心理状態はよく似ているのだ。権威の大きいものなどに指示されて行われば、いくら普通の人間でも思考を停止し、どんな非道な行いをしてしまう。

本作の劇中でも、「人間であることを拒否したアイヒマンは、思考する能力を放棄した」というセリフがアーレントから発せられるが、まさにそのとおりなのである。人間の本質は「思考」であり、それが善悪の判断を与え、現状を切り抜ける力を与え、より強くする。その思考を放棄してしまったら、もはや中身はもぬけの殻のただの操り人形になってしまう。だから、アイヒマン自身は「根源的な悪」ではなく、「凡庸な悪」なのである。「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪」これは非常に感慨深いセリフである。私たちでも、世界最大の悪人になりうるのだ。

そして、迫害側だけでなく、被迫害側も同様に思考を停止していまい、モラルが崩壊してしまうという現象も起きてしまう。本作では、誰にでも起こりうる心理状態を危惧するとともに、「思考」によって、人間は強くなり、その心理状態を拒否することができるということを訴えている。

現代にも通じる。「帰ってきたヒトラー」でもあったように、知らず知らずに扇動された思想になってしまうことも可能性としてあり、それも考える(客観視する)ことで、考え直すこともできるということも考えさせられた。

彼女の強さにも学ぶべきものが多くある。ユダヤ人は被害者。ナチスは迫害者。こうした構図が固定してしまっているなかで、アイヒマンは絶対悪な人間ではなく、ユダヤ人指導者はアイヒマンの行っている任務と非常に深いつながりがあって、ユダヤ人の困窮を救ったのは事実だが、多くのユダヤ人を殺してしまったという事実もある。といった、固定された構図とは真逆のことを彼女は主張する。こうした、無意識的に大衆に染み込まれている固定概念のようなものから脱却し、客観的かつ冷静に物事を論じるという彼女の強さに感嘆された。しかも、抑留された当事者でありながらも、冷静でいられたということにも驚きだ。「理解を試みるのと許すのとは違う」というセリフに集約されており、分別を身につけることが必要であると考えさせられる。

そして、その主張から、当然のごとく世界中から非難をされるのだが、それでも背筋を伸ばし続けて主張を変えないという姿にも学ぶべきものがあり、他人に流されないように、自分を信じ、自分の中にひとつの不変的な思想を持つことが重要であると考えさせられた。しかし、それに依存することはなく、「思考」してフレキシブルに対応していくことも同時に必要であるとも考えさせられる。

この姿も、「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」を思い出させる。かつてハリウッド10の天才脚本家として名を馳せた共産主義の思想を持つダルトン・トランボが、冷戦下で赤狩りが始まる中でも、自分の考えを変えずに、「共産主義の仲間を密告したら見逃してやる」といった言葉にも惑わされずに、ずっと戦い抜いた男の実話だ。

最後に、この考えは反感を買ってしまうと思うが、現在もなお、ユダヤ人は被害者意識を強くしている。あまりにも、被害者意識が強すぎるのではと感じてしまう。確かに、600万人ほどの大虐殺にあって、それは非常に凄惨な状況であり、その辛さを計り知ることができないが、最大限にその辛さを理解しようとしている。しかし、今作での被害者と迫害者の構図の依存を見るに、その被害者意識が真実を隠してしまっているとも考えられる。当時はまだ間もないために仕方がないことだが、現在においても当事者ではない若者が同様の意識であるのはおかしいと感じる。ユダヤ人側も、その意識に依存することはなく、俯瞰し冷静に事象を見つめることが必要であるとも感じさせる。
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