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天使のはらわた 赤い教室のshxtpieのレビュー・感想・評価

天使のはらわた 赤い教室(1979年製作の映画)
4.5
HD の配信、画質よすぎてびびる。というか、こんなに早朝( 7 時)からロマンポルノを見ているやつなんて、いないだろう。

カラーの 8 ミリフィルムとおぼしき冒頭のブルーフィルムの荒々しさ、不気味さからして、あやしく強烈なパワーが漲っている(揺れまくるパンツのアップ!)。そのブルーフィルムの亡霊が 40 年後、黒沢清の『スパイの妻』に取り憑いていることを思って、めまいがした。

画面に引き込まれざるをえない長回しと、不自然で異様なロングショット。相米慎二に引き継がれた曽根中生らしさにおいて、相米と決定的にちがっているのは、えも言われぬなまめかしさ、つややかさーーつまり、官能性だ(『ラブホテル』や『光る女』などを見れば、相米が濡れ場をうまく撮れないことがはっきりとわかる)。性暴力の心的外傷によって性欲の餓鬼に堕した水原ゆう紀は、そのうねる裸体から発するかなしげなエロティシズムで、フィルムのすべてを満たしていく。序盤で一度だけ捉えられる水島美奈子の濡れ場でさえも、どぎついほどに艶やかだ。エロス、エロス、エロス。『天使のはらわた 赤い教室』は、なにもかもが暴力的な官能性に包まれている。

水原が蟹江敬三の股の間から見上げるショット、また水原が大矢甫をフェラチオしながら布団の隙間から視線を注ぐショットなど、忘れがたい瞬間はあまりにも多い(『天使のはらわた 赤い教室』では、「窃視」がひとつの鍵になっている)。実験的な、こう言ってよければ、 1979 年当時のニューウェーブ的な映像や編集も多いが、ひとつひとつのショットの力がそれを凌駕している。

石井隆の脚本が描く性、ひいては人間の生の拭い去りがたい暴力性、かなしみ、狂気は、俳優たちの身体と異様な緊張感をまとったカメラによって増幅されていく。カラカラと高速で回る、赤子をあやす玩具は、性と生の空洞性、虚無感、暴力性を暗示しているかのようだ。一人ぬくぬくと、安穏と生き延び、草薙良一に殴られるだけ殴られて、勝手に傷ついて、へたばっているだけの蟹江は、まさに男が男であることの罪深さを物語っている(水原が言うとおり、男どもは「世話の焼ける坊や」でしかないのだ)。女が女であることの罪を強制的に背負わされ、毀損された水原の魂が最後まで救われることはなく、いつまでも降りつづける土砂降りの雨がその傷や痛み、苦しみ、狂気を洗い流してくれるわけでもない。
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