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天使のはらわた 赤い教室のardantのレビュー・感想・評価

天使のはらわた 赤い教室(1979年製作の映画)
5.0
粒子の粗い画面から始まるこの映画の中の映画から、あの余りにも美しいラストの別離まで、曽根中生の眼は、一人の堕ちて、朽ち堕ちていくしかない女を、冷徹にそしてストイックなまでに厳正にみつめ続ける。

亀和田武の言うように、ブルーフィルムや強姦、ヌード雑誌の真っ只中において、なおかつ育もうとし、そして頓挫した一人の男との純愛は、我々が経験したそれとはあまりにもかけ離れた存在故に、ある種の新鮮さとひときわ妖しい燐光の放ちを感じさせるのだ。

そして、ここでのそれらの<性>は明らかに、衆目を引くための具にとどまるどころか、その<性>という具にもて遊ばれる愛憎のドラマを、くっきりと浮き出させる重要な媒介物としての意味を持つ。名美と村木の出会い、別れ、そして再会には、常に<性>がまとわりついている。

そういう意味で言えば、曽根中生は、この映画で<性>を介在させることによって、どこにもない<愛>を思慕し続ける、苦いあきらめにも似た、逆形のユートピアを描こうとしたのかもしれない。と同時に、彼の聡明な計算は、まさに我々が考えている無数の夢を一つ一つ解体してみることで、一体その後に何があるかをみつめている作業のように思えるのだ。

この映画の胸をつくような切なさは、ラストの描写に集約されている。名美は村木の「ここから出るんだ、どうにかなる、過去なんて」の言葉に一瞬の動揺を感じたに違いない。だが、彼女はここに留まって、更に堕ちていくことが、自分自身のレゾンデートルであり、と同時に心を吹き抜ける真冬の海岸のような寂寥感は、男によって拭い去ることなど到底できない代物であることを本能的に悟ったに違いないのだ。

水たまりに映った自分の分身はさざ波の中で揺れ動く。そして、その像は決して触れうることは出来ない。そこに横たわる不可能性を了解したとき、彼女にできることは只一つ、その姿を自らの足でかき消してしまうことだけなのである。
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