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ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン/ブリュッセル1080、コルメス3番街のジャンヌ・ディエルマンのKnightsofOdessaのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

No.615[他人を演じるということ、別の人生を生きるということ] 90点

みんな大好きジャンヌ・ディエルマンを私は初めて見るのだが、これがまた不思議な映画だった。ちなみに言いたいのだが、正しい邦題は「ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン」だ。コルメスでも3番地でもないから、この邦題はどっからとってきたのだろうか?住所間違えたら手紙戻ってくるぞ。

映画の内容以前に”演技とはなにか”という面で考えさせられた。
まず商業俳優という職業があり、それに対して素人俳優と呼ばれる人々がいる。前者の中でも上手い下手があり、後者も同様である。素人を使うので有名なのはブレッソンや濱口竜介なんかがいる。他にもリアリティの追求のために使う場合(ベッケル「穴」、イーストウッド「パリ発15時17分」、キアロスタミ「クローズ・アップ」)や別ジャンルの人間を主演にする(アイドル映画など)なんてこともある。ただ、その多くに共通するのが、”演技=他人を演ずること”だと思う。他人を演ずるということは、つまり別の人生を生きるということであり、俳優はカメラを通して監督の求める熱量の”人生”を送るのだ。
という観点から見ればデルフィーヌ・セイリグはジャンヌ・ディエルマンという些細なボタンの掛け違えから狂気に転落する上流階級の未亡人の人生を生きているし、同時にデルフィーヌ・セイリグという「去年マリエンバートで」とか「ミュリエル」とかに出演した女優としてカメラの前にも立っているのだ。本作品で"演技"の過程と結果を同時に写し続けることで、演技とは何かを問うている。なんかどっかで見たなと思ったら「彼女について私が知っている二、三の事柄」の冒頭だ。

物語は、よく”ミニマルな実験映画の傑作”と言われる通り、主婦の抑圧された日常が少しずつ狂っていき、最後に狂気に転落するというありそうでなかった話である。最もよく本作品を表しているのが、作中にも登場するボードレールの「敵」という詩である。これは時間の無慈悲な経過と人間の人生に対する哀しみを綴った詩なのだが、ジャンヌ・ディエルマンの人生そのものである。夫に先立たれ、思春期の息子とはほぼ会話もなく、生活費のためにベビーシッターや売春を淡々とこなす日々。時間は無限に過ぎるが、自分は何もなし得ていないという感覚。恐ろしや。

まぁ、時期も悪かった。長かったので2日に分けたのだが、後半は「イカリエXB-1」と「四月の永い夢」という最強映画を見た後に見る羽目になったので評価が上手く付けられない。というわけで、いつか再見することを願ってCriterionのBlue-rayをポチったのだった…

追記
購入したCriterion CollectionのBlue-rayは画質音質共に素晴らしかった。ただ、もう一度3時間見ようと思えないことに気付くのが遅かった気がする。
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