YasujiOshiba

ANON アノンのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

ANON アノン(2018年製作の映画)
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アマプラ。灰色の世界。余分な色がない。黒と灰色とセピア。コンクリートと直線と、夜の光と影と電脳空間。肉体の曲線だけが有機的で艶かしい。瞳のアイリスはレンズのそれと同じで、オンライン化され、アクセス権を持つものの監視にさらされている。

既視感はもちろん『攻殻機動隊』から来るが、それをもう一歩押し進めて、あらゆる人間が電脳化されている世界。

そこに女(アマンダ・セイフライド)が現れる。「未知の存在/アンノウン」(Unknown)だからアノン。電脳世界の記憶/データに自由にアクセスし、消去し、書き換え、報酬を得る。ディストピアのリアル。

このリアリズムがスマホやパッドのモニターを見ないでは過ごせない今を反映。無料で使うSNSサービスにおいて、ユーザーはみずからがプロダクトとなる。自らのデータが売買され、売買されたデータについては、もはや如何とも手が出せなくなる。

簡単に言えば、スキャンダルが一度アプロードされれば、ネット上の欲望のアルゴリズムがそのデーターを無用だとみなすまで、つまりスキャンダルの商品性が消えてしまうまで、手が出せなくなってしまう。それが、今、グーグルやフェイスブックが用いているアルゴリズムだ。

ところが、そんなネット上で、ネットの欲望のアルゴリズムをみごとに騙し、商品としてのスキャンダルを隠すことを商売にしているのが、アノンという女。

彼女がコカインをやったあとで、「ほかにやりたいことはある?データを消してあげられるもので?」(Is there something else you'd like to do? That I can erase?)というのは意味深だ。実際そのあと、クライブ・オーエンとアマンダ・シルフィライドはベッドで激しく愛を交わす。ベッドシーンほどスキャンダラスで商品価値の高いデータはないではないか。

プライバシーという小さな場所。そこには何もあってはならない。なかったことにしなければならない。できれば神にさえも忘れてもらいたいものを収める場所。隠すのではない。なかったことにして、なくしてしまうのだ。

だからこそ、映画の冒頭にロバート・ブラウニング(1812-1889)が引用される。「わたしは戦いを諦める。終わりにしよう。プライバシーを、暗い静かな場所がほしい。神からさえ忘れられたいのだ。『パラケルスス』1835」( I give the fight up, let there be an end. A privacy, an obscure nook for me. I want to be forgotten even by God. -Robert Browning, Paracelsus, 1835)。

その「暗い静かな場所」を確保するために、アノンと名乗るその女は、独自のアルゴリズムを使う。ちょうど、グーグルやフェイスブックが用いているアルゴリズムのように、それを逆手にとって、みずからのデータをバラバラにして、追跡不可能なものに変えてしまうのだ。

アルゴリズムにはアルゴリズムを。それがアノンの反逆。そして電脳化世界における希望。なぜなら、電脳化のディストピアでは、人間が殺されるようが気にかけることはない。生死のデータがあれば不都合はなにもない。不都合なのは、人間が存在しているのにその者のデータが存在しないこと。人間のプライベートな空間まですべてのデータが存在すること。

完全な透明性。見えるものは支配できる。しかし見えないものは支配できない。そしてその女アノンには、存在しているのにデータがない。データーがないものは支配できない。支配できないものは存在してはならない。しかしアンノウン(unknown)のアノンは存在する。それはたしかに希望かもしれない。

アマンダ・セイフライドが依代となったアノンの、圧倒的な存在感とデータの不在こそは、もしかするとクライブ・オーウェンのサル・フリーランドの覚醒のトリガーになるのかもしれない。その名は Sal Frieland。Sal は Salvador (救世主)のことであり、Frieland はおそらく「自由の地」。

だとすれば、はたしてアノンという希望は、救世主サルを自由の国に覚醒させたのだろうか。映画はその前の段階で終わる。そのあとはどうなるのか。つい深読みしたくなるではないか。
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