かなり悪いオヤジ

オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴのかなり悪いオヤジのレビュー・感想・評価

4.0
そもそも恋人同士である2人はなぜタンジールとデトロイトというとても離れた場所に別居していたのだろうか。深く愛し合っていた頃の2人であれば、(トラブルメーカーのエヴァが2人にいともたやすくテレポテーションできたように)離れていても自由に愛を交わすことができたはず。

アダムが劇中自殺をほのめかすような行動に出たのも(ゾンビたちがうるさすぎて)イブへの愛が薄れてきた証であり、テレポテーションできなくなった2人は、やむを得ずスカイプを介して(危険をおかしてまで)実際に会う約束を取り付けざるをえなかった。そう仮定すると妙に腑に落ちるのである。

実はこの(量子)テレポテーション、量子絡み合い状態にある受信者と発信者のみでは極めて不安定、第3者たる制御者の存在によってはじめて安定化する代物らしい。

アダムとイブの場合、アダムの世話人イアン、血液をアダムやイブに提供するワトソン医師やシェイクスピアの影武者ことマーロウだったりするのだろうが、やはり2人の間の“愛(ジャームッシュの立位置からすれば映画愛とでもいうべか)”こそが真の制御者だったと信じたいのである。

そんなリケオとブンコのスタイリッシュなラブストーリーの中に、ゴダール以来の血脈とも言える、商業主義にそまって自滅の道を突き進む映画界へのジャームッシュなりの嘆き節をシタールの調べと共に聴とったのは私だけではあるまい。

劇中、ハリウッドのあるLAをゾンビセンターとこき下ろしたり、(おそらくはタイアップと思われる)ヤスミンのライブシーンを無理やり挿入したらしからぬ演出を見る限り、相当意にそぐわないことを出資者にやらされたに違いない。

しかし芸術家たらんとするアダムいなジャームッシュも、結局はゾンビどもの生き血を吸わなければ(出資金を集めなければ)生き残ること(映画を撮ること)ができないというジレンマがそこかしこに伺える作品でもあるのだ。

電気ケーブルに嫌悪感を覚え、無線送電装置を考案したといわれるニコラ・テスラをリスペクトするアダムに、(媒体を介さず粒子同士直接影響を与え合う)量子絡み合いの話を再三語らせたのも、おそらくは(受信者と発信者をつなぐ)媒体たる映画メディアに対する痛烈な皮肉をこめたかったのではなかろうか。

その意味で、映画タイトルの「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ」とは、言い換えれば「このままじゃ映画は生き残れないよ。愛が無ければね」というジム・ジャームッシュなりの自虐的メッセージではと思ったりするのである。