次男

ノスタルジアの次男のレビュー・感想・評価

ノスタルジア(1983年製作の映画)
4.5
⚫︎哲学っぽい前置き
自分と、自分以外の事象の存在について、哲学者のルドルフ・シュタイナーというひとはこんなふうなことを言っていたらしい。
「自分という個の存在と、対象、例えばあそこに生えている木や、家にいる犬の存在は、地続きではないから、犬の実存は証明しえない。が、ぼくがそれを想い、思い描き、強く繋ぎ止めることで、犬は存在し得る。それをそうたらしめる為に必要なのは、想像力と創造力だ。そしてそれは、演繹法的に、すべての事象に繋がっていくことができる。」
僕の世界の物ものは、僕の想像力と創造力によって、僕に繋ぎとめられ、存在する。
ルドルフ・シュタイナーは、タルコフスキーが傾倒していた哲学者だったと、兄が言っていた。


⚫︎水のこと
靄、霧、湯、蒸気、雨、水滴、水溜り、池、川、雪。
水は形を変えて登場する。水は廻っているのだと思う。ぐるぐると、形を変えて、元は大きな(小さな)ひとつで、絶対量を変えずに、本質を変えずに、形を変えて。あーこれ全部水かーなんて。廻ってるし、還ってる。


⚫︎1+1=1のこと
一滴の水滴と一滴の水滴が合わさっても、一滴。なんか、地球、とか、全体、とかそういう言葉を思った。ただでさえ水が出てくるしね、あの、英語の授業のあれ、「水は数えられません」を思い出した。1とか2とかじゃない。人間は、数える。なんで?なんで人間の数は数えるのか?人間も、ほかのなんでも、どこかの、神の?、視点からみれば、試しに見てみれば、1+1=1から、別に外れるべきじゃないのかもしれない。
そういえば、「境界をなくす」みたいな台詞あったな。


⚫︎音楽家のこと、亡命のこと
劇中でアンドレイが軌跡をたどる音楽家は、祖国を離れて亡命していた。この映画を撮ってるタルコフスキー本人も、この映画を制作したあと亡命をしている。そして、この映画の主人公としてのアンドレイも、いまは祖国を離れ、イタリアの地にいる。
僕は、海外に行くと、不思議に思う。あの線のこと。国と国を隔つあの線。常識的に考えたら、ものすごく真っ当で、その必要性も役割もある程度わかるつもりなのだけど。この線かー、と。
壁時代の東西ドイツとか、南北戦争の朝鮮半島とか、例なんて山ほどあるけど、その線の、その線を超えられないこと、超えること。なんの線だ。
国と国の間の線。個人と個人の間の線。個人の線を越えるなら、全体になるよなあ。


⚫︎狂人の訴え
一語一句なんておぼえていないけど、上記をもって彼の話を聞いたら、驚くくらい、驚くくらい「何を言っているかわかった気がした」。彼は言っていた。「俺はエゴイストだった。自分たちが助かることだけを考えていた。世界を救うことを考えなきゃいけなかったんだ」。外へ出た子供は言う、「パパ、ここが世界の終わり?」
アンドレイが彼の家に訪れたとき、そしてあの演説のシーンでかかる音楽は、言わずと知れた「第九」。正月、居間で観ていたときに、母親がいたので聞いてみた。「第九のテーマってなんだっけ?」「人類愛」


⚫︎冒頭の教会のシーンのこと
「女はなぜ神にすがるのか」という質問に、管理人の男は言う、「子を産むから」。子を産むことは、種を続けること。自分以外を宿す、産むって、改めてすごいことだ、なんだか。個人を超えたものを産むこと、種を続けること、世界を続けること。女性は腑に落ちない、「望んだ答えじゃなかったか」、望んだ答えじゃないのは、彼女が子を産むことを(女性としてはきっとごくごく当たり前に)個人的なことと考えているからでないかな。母親としての、というか。


⚫︎アンドレイの記憶のこと
アンドレイの記憶は、断片的に明かされる。明かされるなんてもったいつけたものでなく、断片的に放出されてる、くらいかな。二回観たけど、彼の過去になにがあったかはよくわかんなかった。
いや、でも、思ったんだ、こういうもんかもしれんなーって。いま、現在生きてる世界の中で、景色で、ふと昔の何かを思い出して、ありありと、匂いとかまで。最近、実はよく思い出す。幼稚園まで住んでいた祖父母の家のこと。
亡命した人間にとっての故郷は、より強く隔たりを感じるだろうなあ。本当に全く、さっぱり想像もつかないけど、時間も場所も、国境も、政治も宗教も?境はたくさんある。たくさんあるけど、根本的な意味では一緒だ。
ふとしたときにふと思い出して、思い出した僕によって、それは地続きになる。


⚫︎地続き
そう、地続き。地続きだ。
彼と僕も、記憶のあの場所と今ここも、形を変える水も、地球上にこんな場所があるのかと感嘆するほどのこの映画の景色とテレビの前にいる僕も、全部、地続き。


⚫︎火のこと
印象的な火がふたつ、出てくる。
狂人を焼いた火と、温泉を渡った火。
温泉のシーンを観た時、なんて頼りなく小さいんだと思って、アンドレイが必死に囲ってる様が、子供を守ってるようにも見えた。火は簡単に破壊的にもなるが、守って持続させようとすると、あんなに脆く頼りなくなる。


⚫︎地球のこと
初めて観た時、地球に還る、みたいなことがテーマかなと思った。なんというか、所属・地球です、というか、僕は僕である以前に、地球を構成する一員、というか。すごく大袈裟なように感じて、あまりしっくりこれなかったけど。軽っぽい言葉にするなら、ノスタルジアって地球のことかな、くらいの。
でも、今回観たとき、同じようなことを感じながら、すごく身近なことだとも思った。なんだろう、スローガン的な、啓発的な意味じゃなく、原義として、というか。
利己的な遺伝子じゃないけど、動物は当たり前にやってることで、人間は当たり前にはできないこと。前述のルドルフ・シュタイナーは、「人間は、それが当たり前にできない代わりに、人間には想像力と創造力が備わっている」と言っていたらしい。そしてそれによって、想像して、創造して、自分を世界に繋ぎとめなきゃいけない。


⚫︎犬のこと
不思議なほど、この作品には犬が出てくる。アンドレイの回想にも、アンドレイが泊まったホテルにも、狂人の家にも、温泉にも、ローマにも、どこにでもいる。
なんか、あれかなと、適切な言葉が見つからないけど、人間の取り決めたあらゆるボーダーを超えてうろついているように思えた。やつらは動物でありながら、人間のパートナーのようで、というか、なんだろ、タルコフスキーって、犬を飼っていたんじゃないかな。この映画のアンドレイのように、昔犬を飼っていたんじゃないかな。そしてたぶん思ったんだ、目の前にいる今の犬を見て、「自分の存在を分断するあらゆるボーダーを超えて、記憶の犬が、本当は地続きな世界を、自由に行き来している」ように感じたんじゃないかな。それくらい犬の存在は恣意的で、でも意味深い。
姿だけじゃない。この映画のあらゆるシーンで、重要なシーンで、犬の鳴き声が聴こえてくることに、今回初めて気づいた。


⚫︎ラストシーンについて
自分の中でこの映画の様々を理由づけられていったとき、あのラストシーンは、もう本当に、言葉にならないほど素晴らしく、ストレートに、心を突いた。
左右にそびえる建物は、イタリアのそれのよう。地面から奥に広がる景色は、アンドレイの原風景、思い出のロシアの地のよう。傍らにはやはり犬がいて、ゆっくりと降るのは、雪。あれはきっと、あの地とこの地と自分と世界とすべてをないまぜにしたような、境界のない、魂の場所。流転する水は雪に形を変え、彼に降りしきる。ボーダーのない世界、ちがうな、本来世界にボーダーはなくて、ないというか、なんだろ、でも、少なくともあれが、タルコフスキーの求めた景色、なのかな。望むべき故郷、ノスタルジア。

◆◆

一度目に観た時はその美しさにただただ圧倒されたけど、今回はなんだか、この大袈裟に大仰に美しい世界と相反して、シンプルに、一人の男の個人的な叫びのように聴こえて、だからかわからんけど、少しだけ泣けた。
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