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ウィンチェスター銃'73のyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

ウィンチェスター銃'73(1950年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

銃の持ち主を変えて、話を転換していく着想が面白い。
チャプターに分けられるというか、オムニバスな話が時間軸をズラさずに繋がって行くというか、短編集を一本に繋いだような印象があり、まるでペーパーバックの小説のようだ。

「千に一挺の銃」と称されるウィンチェスター銃'73。
リン・マカダム(ジェームズ・スチュアート)はダッジシティの射撃大会で優勝してその銃を手に入れるが、仇敵のダッチ(スティーヴン・マクナリー)に奪われる。

しかしその後、ダッチはポーカーに負けて商人に、その名銃を取られ、商人は先住民に強奪され、銃は次々と持ち主を変えていく。
リンと相棒ハイスペードは、銃とその持ち主と信じて疑わないダッチを追跡するのだが…。

物語の中心にあるウィンチェスター銃は、日本だと「名刀」に相当するわけだが、本作では次々と銃の持ち主が変わっていき、彼らがまた次々と殺されていく。
時代劇ならば「妖刀」のような扱いの話である。

ダッチのように人を殺してでも欲しいと思う人間が居るから「妖刀」のように不吉なシンボルに映るのである。

オカルト・ホラーの概念が無いこの時代の、しかも西部劇で、こういう脚本があったのかと感心してしまった。

名刀にしても名銃にしても、優れた道具は次々に人を魅了する。
まるで次々に宿主を変える呪いのように。

それゆえ、冒頭の町での射撃大会やインディアンの襲撃、岩場での決闘など、尺の短い割りに、銃撃シーンはこの時代にしては多め。
決して退屈はしない。

町の射撃大会は互角の勝負が続き、どんどん的が小さくなる。
どうやって決着がつくのか?とワクワクする。

インディアンの襲撃シーンは、酋長をリンの射撃の腕で倒して撃退するのだが、騎兵隊の数よりも圧倒的に敵の数が多くて、絶体絶命の危機を感じる。

ラストの岩場での決闘は凝りに凝っていて、父の教えを語りながら、リンがダッチを岩の隙間に追い詰めていく。
とても理にかなっていて戦略的な攻め方だ。

跳弾を計算して、ダッチの身体を岩の隙間にはめこんでいくところは、なかなか知的な策略である。

牧場や街中など平坦で広い場所での決闘が多い西部劇には、中々ないイメージだ。

ここでは2人が実は兄弟だったという意外な関係も明らかにされていて、クライマックスにふさわしい対決だった。

因縁が繋がっていく脚本がテンポ良く展開する。
ドラマとアクションのバランスが絶妙な西部劇だ。

個人的には、ウィンチェスター銃を、勝ち取ったのでも、欲しがったのでもなく、偶然に与えられたがために災難にあう、スティーブ(チャールズ・ドレイク)のエピソードが心に残った。

男として可哀想で、なんだか観ていてとても悲しかった。

登場場面で、小心者の彼はインディアンを見つけるや否や、妻をその場に残して、助けを求めに行く。
迫るインディアン、1人残された妻にしてみれば、たまったものじゃない。
自分だけ助かろうとしてるのか?と目を疑う。
勿論、ちゃんと戻って来るのだが。

インディアンから解放され、酋長が持っていたウィンチェスター銃を騎兵隊から貰うスティーブ。
それを狙うダッチの知人のガンマンに家を占拠されると、「エプロンを着てコーヒー持って来い」などと絶え間なく侮辱され、男として扱ってもらえない。

我慢できずに銃を抜いたら、あっさり撃ち殺され、挙句の果てには妻とウィンチェスター銃を奪われている。

西部劇での銃=男根というのが、お決まりの隠喩ならば、銃の腕前がものを言うこの世界は、優れた男性性を競っている世界とも言える。

ウィンチェスター銃は優勝トロフィーのようなものだ。
最終的にこれを手にしたものが、男のなかの男なのだ。

スティーブの末路は、男の沽券に関わるもので、これは見ていて、もし自分だったらどうするのか?自分と重ねて考え込んでしまった。

自分はリンでもなければダッチでもない。
守るべき妻子がある男で、それほど腕っぷしにも自信はない。
スティーブの立場に近いのだ。

己の男性性を守るために、銃を抜いて戦って死ぬか?
それとも屈辱に耐え、汚名に耐えてでも生きていくのか?

リンがその腕前でダッチを倒した。
彼には技術がある。
ブッチは無法者だが、腕っぷしと決断力がある。

スティーブである私には何があるのか?
物語とは全く関係ないところで、そんなことを考えさせられた。
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