なお

インセプションのなおのレビュー・感想・評価

インセプション(2010年製作の映画)
4.8
昔から、稀代の天才作家は、とかく「夢」をテーマに作品を作りたがる。

ウイリアム・シェイクスピアの「夏の夜の夢」しかり、カフカの「変身」しかり、夏目漱石の「夢十夜」しかり、黒澤明の「夢」しかり、夢野久作の「ドグラ・マグラ」しかり、そしてフィリップ・K・ディックの「追憶売ります」とそれを映像化したポール・バーホーベンの「トータル・リコール」しかり。そしてそして、忘れちゃいけない押井守の「ビューティフル・ドリーマー」しかり。

それは、夢の中の出来事が、とかく荒唐無稽で支離滅裂であったとしても、奇想天外であり、めちゃくちゃ面白く、めちゃくちゃ不思議で、もしくはめちゃくちゃ怖く、それこそ現実離れした柔軟な発想のもとに成り立っている「無限に湧き出る創造の泉」であることを彼ら自身が認識しているからだと思う。

だけども、なんでもありの「夢」をそのまま作品化してしまうと、なんでもありのために、ヘタすると、作った本人しか分からない「難解な」内容になりがちである。

そんな中の、稀代の天才脚本家にして天才監督のクリストファー・ノーランである。

基本設定は、今から2400年も前の中国の思想家・荘氏の「胡蝶の夢」であり、「夢の中が本当は現実なのじゃないか」「現実と思っているこの世界の方が実は夢じゃないのか」をメインテーマとしてはいる。

しかし。

クリストファー・ノーランの天才の天才たるゆえんは、夢を多層構造にして、しかも、ただのマトリューシカ(入れ子構造)ではなく、それぞれに時間的差異を設けることで、夢をテーマにした作品にありがちな「難解さ」を極力廃し(とはいえ、やっぱり少し難解ではあるんだけど)、物語を深みのある上質のエンターテイメント作品へと昇華させている点につきると思う。

1997年のデビッド・フィンチャーの「ゲーム」(マイケル・ダグラス主演)は、誕生日のサプライズイベントというネタで、「胡蝶の夢」の、現実なのかゲーム(夢)なのか、ゲーム(夢)なのか現実なのか、を繰り返し繰り返し描いた傑作だ。だがそれは、表にも裏にも数字が描かれたトランプの、表と裏を交互にひっくり返して見せて、主人公を混乱させ続けるという単純構造だった。

1990年の「トータル・リコール」も基本設定は同様だ。希望の夢を見せてくれるというリコール社(原作ではリカル社(早川書房・浅倉久志訳版))で、火星と地球を股にかけて活躍する諜報員(スパイ)の夢をリクエストしたはずの主人公が、実は本当に過去の記憶を消し去ったスパイだったということで、リコール社が植え付けてくれた偽の夢と消し去った記憶がごっちゃになっちゃって大混乱し、「現実」とリコール社の「偽の夢」と消し去ったはずの「記憶」の、一体全体、どれが果たして本物なのか、そもそも現実はかりそめの作られた「虚構」だったのか、ということで、主人公(と観客)を混乱させる大傑作だった。

(ちなみに、寺沢武一のスペースオペラの傑作「コブラ」の冒頭が、「追憶売ります」「トータル・リコール」の冒頭とそっくりなのは、ご愛嬌。フィリップKディックが「追憶売ります」を発表したのがアメリカで1966年、日本で早川書房が翻訳し、日本人の目に触れたのが1970年代前半であり、集英社週刊ジャンプに「コブラ」が発表されたのが1978年なので、明らかに「追憶売ります」を参考にしたのだろうが、似ているのは冒頭だけで、サイコガンしかり、その後の、まさしくスペースオペラ的展開は、寺沢武一先生の天才ぶりがいかんなく発揮されたオリジナルの最高傑作)

話を「インセプション」に戻すと、夢を多重構造化したことにより、それまでの、夢をテーマにした作品のどれもが、「夢か現実か」「現実か夢か」の、表と裏、裏か表か、だけの単層的ひっくり返しだけで、主人公(と観客)の混乱と判断を物語の縦軸に持っていかねばならなかったのに比べ、とにかく複合的に、より立体的な「ひっくり返し」で、主人公と観客を(いい意味で)混乱させることに成功させている。

特に秀逸なのは、主人公のレオナルド・ディカプリオ扮するコブが、インセプション(思考植え付け)を過去に行ったことがあるという「謎」である。この「謎」と、妻・モルとの「究極の愛」のサスペンスが見事に絡み合っていることで、夢物語がただの「夢オチ」では終わらせないぞ、という、いい意味での「不安感」をもって、映画は最後まで進んでいくのだ。
なお

なお