まぁや

パラダイス 神のまぁやのレビュー・感想・評価

パラダイス 神(2012年製作の映画)
4.3
パラダイス 神 3部作 第二章
第一章で登場するテレサの姉、アンナの物語。
殺風景なほど必要なものだけで整えられた静謐な広い家。装飾品として目を引くのは十字架やキリスト教にまつわる品々。ここはアンナにとっての神殿そのもの。
アンナは敬虔なカトリック教徒で、イエスや聖マリアを家族のように慕い、キリスト者として熱心な信仰の日々を送っているが。。その信仰の表明ぶりが滑稽で、呆気にとられるやら、クスクス笑いを止められなかった、、仲間の信者の罪を自ら引き受け、わざわざ半裸になって、特製のムチで自分の背中を打ちすえてみたり。イエスの偶像に向かって愛を囁いたり、、揚げ句十字架を性的な用途に用いたのには絶句した。これは信仰というより、家庭のなかで夫の位置に神を据え置いてるのではないかと感じた。

ふと、監督のシニカルな視線を感じる。鑑賞者に対しそろそろ自己欺瞞から目覚めたらどうか。あなたの求める神はそこにいますかという疑問の投げかけ。
ここに描かれているのは、宗教組織の縮図なのかもしれない。何百年もの間に贅肉をつけ超え太った宗教体制の空虚さとアンナの滑稽さが重なる。
我々は神殿に神を奉り崇拝するけれど、とうの昔に神と人間の絆は絶ち切れてしまってるのじゃないだろうか。何者にも届かない祈りを何百年も捧げ続けているのではないかと。そんな考えが頭をよぎった。

話を戻すと、、
アンナの夫は2年ぶりに自宅に舞い戻ってくる。イスラム教徒で車椅子生活の夫がアンナの生活に登場することで、それまで平穏だった生活は不協和音を奏で始めた。一家の主は一人だけでよいが、家のなかに神と夫の二つの存在に増えてしまったことで、混乱したアンナは夫の行動を封じ込めようとする。車椅子を取り上げ部屋に軟禁する行為はアンナの追い詰められた狂気を感じさせた。

2年前に事故を起こし半身不随になった夫は、性的不能者になったことで妻とどのように関わってよいのかわからなくなってしまったのだと思う。飢餓感を持ってアンナの愛を求めているのに、うまく表現することが出来ず、むしり取るように彼女の心身を奪おうとする。一方アンナはあからさまに夫の存在を無視し自分の心の領域にはけして夫を踏み込ませない。。二人を見ていると大国間の争いを連想させる。異なる神を盲信する二人には寄り添う意思がなく、相手の側に立ち、想像力を駆使して可能な限り理解しようとする憐れみもない。欲しいものは力付くで奪う(武力行使)相手に言うことを聞かせるために行動を制限する(経済制裁等々)など。なんだ、政治情勢と全く変わらないな、、と感じた。まさに家庭で起こる争いは相似形をなして国事に伝播していくという事だろう。

今までアンナは移民など居場所がなく困窮した家庭、あるいは自分達なりに土地に根差した人々を訪問し、神の救いを説いていたが、一度として彼らに寄り添い、苦しみをわかち合って涙することはなかった。やることと言えば彼らの暮らしや生き方を一方的に否定するだけで、自分の生き方や思想を押し付けるだけ。それはもう見事なほど、人々を無視し続ける。

アンナの不毛な布教活動を眺めているうちに、どんどん違和感が増していった。彼女が受け入れて欲しいのは神ではなく、突き詰めると自分自身の正しさなのかもしれない。自分を神の位置において夫を人々を裁くのだから、到底理解しあえるハズがないのだとそう感じた。

後半の崩壊ぶりは呆気にとられて、思わず笑ってしまったけど、ようやく本来の彼女の素顔を見れた気がして安堵した。信仰を捨てるのか、あるいは今後も信仰を継続するにしても、これまでとは違う生活を送ることになるだろうと思う。

夫とも、本当の自分の気持ちを表現して向き合うのじゃないだろうか。苦しみが優勢になるのなら、別々の道を歩むだろうし、夫の気持ちに寄り添って可能な限り理解しようと努めるなら、二人はまったく新しい生活を始められるかもしれない。

『パラダイス 愛』に引き続き、こちらでも問われているのは感情に根差す本能的な愛ではなく、理性から紡ぎ出される「アガペー、無償の愛」なのだと思った。
まぁや

まぁや