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ソレナンテ・エ・ロゲ[Sorenant et Roage]
(1599~1664 フランス)
ふざけたAAを張っておきながらアレなのですが、このAAを使うべきは「ミスターノーバディ」だったな、と。
ただシャーロットと再会したあたりの展開がちょっとそれっぽかった(エロゲというかレディコミだろうか)ので勢い余って使ってしまった。スマンカッタ。
しかしこれだけ魅力的な女性がいながら最萌えはデズモンド叔父さんという転倒っぷり。あたし、そういうの嫌いじゃないから!
というおふざけはこの辺にしておくとして。ユーモアのセンスが凄まじくイギリスっぽい(曖昧模糊)なーと思ったら監督はリチャード・カーティス。とか知った風な書き方しておきながらこの人の監督作はこれが初めてという相変わらずな体たらくな私でございますが、「ミスタービーン」の脚本とか手掛けてるしそういう言い方も許してほしい。でもオーラルセックス(原語ではクンニリングスとかいう直球っぷり含め)のくだりとかイギリスっぽいし。
タイムトラベルものの割に何か大きなインシデントがあるわけでもない、というのがちょっと珍しいかも。タイムトラベル自体がそうだろ、と言われてしまえばその通りなのですが、それすらも素っ気なく描く。暗がりに行って目をつぶったらポンである。SEだけで演出する省エネの巧みさなど、その辺も割と英国風味であるように感じる。
「メッセージ」との共通点を上げている人もいましたが、確かに「時間」の不可逆性と可逆性についての話と言う点では共通していますな。当然っちゃ当然なんですけど、そこに含まれるのは身近な人間の「死」であり、そうなると私などはキューブラー=ロスの死の需要過程じみたものも感じてしまう。
で、先に述べたようにこの映画には劇的な何かがあるわけじゃない。たとえば妹の事故にしても、時間を戻さずとも命に別状はないことが判明するし、その事故そのものよりもジミーというクズな彼氏と別れることが主題とされているわけですし。
であるからこそ、ともすれば教訓的で説教臭い「何気ない日々が大切」なのだというテーマを抵抗感なくすっと受け入れらるわけです。
個人的に一番ぐっと来たのは、最後に父親と卓球をしに行く場面。あそこで卓球部屋に行くまで主観になるのですが、部屋に入って見るとそこには主観の主であるはずのティムの姿もあるわけなんですね。つまり、ティム自身がティムを見ているという構図になっているわけですよね。
それは、ある種の解離した自分(乖離ではなく)を見ること。その断絶性。それから彼はタイムトラベルをしないことを決める。
そういう細かな演出がそこかしこにみられる。全編通してカメラは揺れ続けるし、終盤でティムが朝食を作ろうと起床したあたりで、メアリーの寝返り動作を微妙に異なるアングルで4回ほどカットバックしてみたり。
つまり「同じ」でありながらも「異なる」「時間」「空間」に置かれた「不安定さ(落ち着かなさ)」を、ついにはティムが受容する話なのでせう。
だからこの映画は素っ気なく終わる。日常は素っ気ないものだから。そこにこそ価値を見出すこと。何か劇的なものを経験せずともそこに共感できるのは、身近な人の素っ気ない死と地続きに繋がっているから。
それと選択の話でもありますね。もちろん、その選択はごくごく限られた選択でしかなくそこに自由を見出すのは「マトリックス リローデッド」的なおためごかしでしかないわけですが、それを受け入れたうえて選択をするということが重要なのだということ。