ヤマダタケシ

真昼の不思議な物体のヤマダタケシのネタバレレビュー・内容・結末

真昼の不思議な物体(2000年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

その土地から生まれる物語と物語によって作られる土地

【重層的なもの】
 今作に限らずアピチャッポンの作品は画面にいくつもの世界のレイヤーが重なる。それは過去だったりあの世だったり神話の世界だったり。映っているのはたいてい何でもない食卓や公園だったりするのだが、その上にうわさ話やなつかし話が重なることでその世界が重層的に見えてくる。

【オープニングの妙、次の物語への橋渡し】
 その上で今作はオープニングからして重層的である。オープニングでカメラは車の窓からタイの市街地を延々と映す。そこに事故で亡くしたはずの恋人が生きていて、別の男と暮らしているところを見つけてしまった男の話が誰かの語りで入る。最初に思うのは、この物語が今カメラには映っていないがこのカメラを運転する男の物語なのか、あるいはこのカメラがたどり着く先の誰かの物語なのか、つまり今スクリーンに映っているものと語りの関連である。しかし、語りの直後にアナウンサーが登場し、これがただのラジオ番組だったことが分かり、さらにその後スピーカーからはナンプラー販売のアナウンスが流れる。さっきまでの車の進むスピードと物語が語られる展開が一致していたような感覚はここで砕かれる。
 そして、この車=ナンプラー販売のトラックに乗っていた女の身の上話に続く作り話としてこの映画ははじまる。ここから彼女を出発点に物語が複数の人によって作られていくわけだが、その前にこのトラックのラジオシーンを入れることで以下の
・ラジオで流れているようなタイの有名な民話も、ここから起こる物語作りと同じように
誰かと誰かの作り話によって生まれていることが示される。
⇒ここから作られる物語の展開にも、この冒頭の物語、物語的な他の民話も要素として
関連しているかもしれない

【物語とそれが生まれる場、語られる場】
 ここから行われるのは最初のナンプラー・サバ売りの女が作った話「足の悪い少年と家庭教師の女」を複数の人によって展開するということである。別の人から別の人へ、リレー形式で物語は作られていく。派手なおばあちゃん、サッカーに興じる少年、女学生と人は変わり、最初は少年と家庭教師のドラマだったところに不思議な物体から生まれた少年が現れファンタジーになり、家庭教師を想う男が現れかけおちのロマンスになりかけと右に左に物語は進む。それと同時に物語を作る人を追うカメラも次第にタイのより深い田舎の方へと進んでいく。
 物語を語るそれぞれの人の身の上話と物語の続き、語る人達の生活する場所・風景と物語を再現した映像が交互に挟まれるので、どこまでが物語の中でどこまでが語られている現実なのかが分からなくなる。それは意図的なものであり物語と語る人の話、物語の世界と現実の境界は意図的にあいまいになる。
・それは物語とそれを語る人の身の上話をイコールで捕えることからも行われる
・物語の中の人物が自ら身の上話をする(=物語を作る人と同じことをする)ことによっても行われる。女家庭教師の少年の両親との関係、それも再現映像になる
 ⇒それは物語の中の人が身の上を語ることによって、語る人物として物語を作っている
存在と彼女を同じにする。
物語の中に登場する人物から語られる物語として入れ子構造だし、インセプション
 ⇒再現映像を撮られている場所と語り手が語る場所が同じであり、その物語と現実はあ
いまい
・再現映像に重なる語り手の物語のモノローグ、その後ろに流れる虫の声や風の音は
再現映像の画に重なっても違和感が無いため、その二つの世界はあいまいになる。
  ・また再現映像を演じるのもその場所の人達であり、物語の登場人物では無い実際の
彼らも映画の中に映るためそこでも現実と物語はあいまいになる。
 また語られていく物語自体も、それを語る人のその人性、好みによって大きく変わっていく。一番印象的なのが物語のラストを作った少年であり、彼によって人食いトラが登場し、全員死んで終わってしまう。そして周りの子供たちからせがまれ少年は別の話を始める。ここで〝死んでいたはずの恋人の話〟⇒〝少年と家庭教師の話〟⇒〝〟という風に物語は次のものへと進む。

『真昼の不思議な物体』では物語が生まれる過程と、その物語が作られる場所・過程を描きながら、その物語が、いかにそれを語る人のキャラクターさらに言うとそれを生み出す生活、場所によって生まれているかが描かれる。それをリアルに描くことにより物語自体が臭いや体温を持ち、現実に近づいてくる。結果として、物語の場所と現実は重なる。
作り話と身の上話は、その生活の場から生まれた物語という意味で同じであり、誰かにとって語られる場所という意味では同じ。今作は語られる場所として存在するその場所が、語られる瞬間に現れるようなイメージがした。語られる場所としてのその場所は、語られる場所であるが故にいくつもの話が重なって重層的である。

・最後に挟まる何でもない子供たちの遊ぶシーンは、もしかしたら語られる場所では無い、
ただのその場所を表わしていたのか?だとすると、カメラで切り取った時点でその場所
はカメラによって語られるその場所になってしまう。いや、この監督だからむしろラス
トでやっていたことってカメラによってその場所を監督自身が語るってことだったんだ
ろうか。
・それぞれのパーソナリティを反映させた上でひとつなぎのやり取りを紡いでいくという
意味では、サイファーに近い側面もあると感じた。